深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL:
動体観察 2daysシリーズ[第6回]
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極私的ダンスシリーズ
深谷正子
『入射角がずれる』その2
日時:2024年10月22日(火)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
ゲストダンサーシリーズ
『音と身体』
出演: 山㟁直人、やましん、冨士栄秀也
日時:2024年10月23日(水)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD
(東京都港区六本木5-10-33)
料金/各日: ¥3,500、両日: ¥5,000
照明: 玉内公一
音響: サエグサユキオ
舞台監督: 津田犬太郎
会場受付: 玉内集子、曽我類子、友井川由衣
写真提供: 平尾秀明
問合せ: 090-1661-8045
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『入射角がずれる』の初回公演は、コロナ禍で緊急事態宣言が出されたことの余波が消えず、社会的な混乱の残る時期におこなわれた。ある意味、意を決した公演だった。生活感覚に密着し、深掘りされる身体感覚に訴えておこなわれる深谷正子の極私的ダンスだが、そのダンスが自閉的なものにならないのは、作品テーマに選ぶなどして直接的に触れられることはないものの、彼女のパフォーマンスにおいては、現代社会の出来事もまた、観念的な議論によってではなく、細かな皮膚の震えのようにしてキャッチされているからといえるだろう。深谷正子の身体感覚はつねに社会性を帯びている。むしろ個人的な生活と社会を串刺しにしているといったほうがいいかもしれない。そのダンスがダンスにとどまらず、アートへと越境しておこなわれているのはこうしたところに淵源している。
美術展で踊る機会を多く作っている深谷だが、彼女自身の公演においてもまた、舞台装置は一種の美術インスタレーションと呼べるものになっており、ダンサーの美的センスに貫かれているのだが、それ以上に重要なのは、伝統的なモダンダンスをベースにあれこれ印象的なポーズをとっていく身体そのものも、ステージ空間にインスタレーションされていくものとして存在しているという点だ。その分厚い存在感をある評論家がギリシャ彫刻にたとえていたのを思い出す。「その2」における舞台装置は、初演時とまるで違ったものになっていた。そのときの公演レヴューが残っていて、タイトルにある謎の言葉「入射角」がなにを意味するのかという考察とともに場面描写をおこなっているので引用してみよう。
「(1)公演冒頭の場面で、ステージ中央に仁王立ちしたダンサーの顔がわずかに動くことでスポットライトの入射角がずれる。顔の隈取りが変化する。(2)ヘリコプターの玩具を吊るした紐が右肩にかかっていて、ダンサーが下手に歩くとともに天井から伸びる紐の入射角がずれる。肩の緊張感が増加する。(3)床に横寝した姿勢のまま、足をふり手をふって左回転していく場面で、疲労によって次第に足が床に突き刺さる入射角がずれる。次第に角度が大きく、身体が平べったくなっていく。(4)床に仰臥してホリゾントに片足をあげ、また両足をあげる場面で、膝を曲げたり壁から足を離したりすると足と壁の間で入射角がずれる。逆さにあげた不安定な足の動きがダンスとして踊られる。そして(5)斜めになった板をホリゾントまで登っていくラストの場面で、静かにたどられる歩行は、最後まで入射角がずれることがない。この最後の場面は、動きがずれを起こさないような装置の存在によって、ダンサーは最後まで同じ角度で坂を登っていく。」──後半部分で、スプリングだけに剥かれたベッドマットが活躍した本公演でも、末尾を飾るクライマックスの場面では、スプリングのうえに横になった深谷によって(3)の動きが引用された。そこまでにいたるパフォーマンスでベッドマットを斜めに抱えた動きを多用したのは、明らかに身体とマットで作る「入射角」が意識されてのことだったろう。
『入射角がずれる』その2では、ヒリヒリとした時代の空気感に切迫されていないぶんだけ、極私的ダンスにおけるモダンダンス度があがっていた。その代表的な動きが、両ひじを前後にあげて全力疾走するポーズをくりかえす公演前半のミニマルな身ぶり構成にあらわれていた。たしかにそれはすでにモダンタンスの振付ではなく、深谷ならではの美意識を反映した身体インスタレーションになっているぶんだけコンテンポラリーにはみ出した身体といえるようなものなのだが、彼女ならではの手法になっている自身の身体を邪険に扱うことから生じる切迫した身体感覚──観客の感覚を否応なく巻きこみ「極私的ダンス」を立ちあがらせる骨や肉の軋み、痛みといった身体の生々しさを欠いていたからだろう、地層のようにして積み重なっている(ダンス教育という)身体の深層が透けて見えたのだと思う。(北里義之)■
動体観察 2daysシリーズ