竹田賢一|大正琴即興独弾
当たるも砕けろ六十四卦の六四上がり溢し
A Sex-con Dharma's Gone for Broke with 64 Hexagrams
日時: 2012年7月29日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 6:30p.m.,開演: 7:00p.m.
料金/前売: ¥2,400、当日: ¥2,600
出演: 竹田賢一(大正琴、歌)
ゲスト:木村 由(dance) 鈴木健雄(vo, electronics)
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)
【演奏曲目|即興演奏はのぞく】
── 第一部 ──
1. 賛美歌405「送別」
2.「原爆を許すまじ」木下航二
3.「香に迷う」端唄
4.「Goodbye Pork Pie Hat」チャールズ・ミンガス
5.「生きているうちに見られなかった夢を」竹田賢一
6.「エストレリータ Estrellita」Manuel M. Ponce
── 第二部 ──
1.「ホタテのロックン・ロール」内田裕也
2.「シチリアーノ」フォーレ
3.「奥飛騨の女」竜 徹也
4.「自殺について Über den Selbstmord」ハンス・アイスラー
5.「白い恋人たち Treize jours en Paris」Francis Laï
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MCの話を書き写せば、竹田賢一が39歳のときにスタートしたこの誕生日コンサートは、ご母堂の在宅介護で余裕のなかったこの四年間ばかり休止していたものを、復活したのだという。誕生日は7月16日なのだが、諸事情から、今回は二週間ばかり遅れたこの日が公演日になったのだそうだ。7月29日が誕生日という新旧の友人がおり、そのふたり、鈴木健雄と木村由が、第二部に特別ゲストとして迎えられた。前者はホーミーとエレクトロニクスの演奏、後者はダンス・パフォーマンスで、いずれも用意された楽曲をはさむ即興パートに参加してのセッションであった。コンサートにはいつも謎かけのような、一行詩のようなタイトルがつけられている。今回は「当たるも砕けろ六十四卦の六四(むし)上がり溢(こぼ)し」で、なかで竹田の64歳と、木村由が主宰する「ダンスパフォーマンス蟲」の数字表現がかけあわされている。7月29日は、脱原発国会大包囲デモがおこなわれた日にあたり、離れたこの場所からデモにエールを送るため、「原爆を許すまじ」のような楽曲も演奏されたが、むしろ誕生日という特別な日を機縁にして歌われたのは──ここには、親を看取るという経験も、間違いなく深い影を落としているはずだ──死と別れ、そして竹田自身の出自に触れながらおこなう、この世の生のありように対する述懐であった。
古くからの友人がたくさんつめかけるコンサートではあったが、おそらく生と死にまつわる重たいテーマが、救いのないものとして受けとめられないようにという配慮からだろう、「香に迷う」「エストレリータ」「奥飛騨の女」「白い恋人たち」など、いきどころのない感情のクッションになるような楽曲も、死と別れを歌う鎮魂歌の合間やコンサートのしめくくりにインスト演奏された。あらためていうなら、竹田賢一には二つの声があると思う。というか、もしかすると声は、もともと双子で生まれてくるのではないかと思う。竹田の場合、そのひとつは日本語(や英語)をフェイクしながら肉づけするコンプレックスした声で、もうひとつは深々とした感情を立ちあげるストレートな大正琴の声である。私たちはふつう、前者を「歌」と呼び、後者を「即興演奏」と呼んで、ふたつにわけている。肉声で歌うにはあまりにダイレクトなものを即興演奏が表出し、大正琴の即興には乗らないような複雑で繊細なものを、肉声が言葉へともたらしながら、ふたつの声はときに支えあい、ときに遠く離れあいしながら、対話的にある内面世界を描き出している。私が「大正琴即興独弾」を聴くのは、じつは今回が初めてなのだが、竹田賢一の声の構造とでもいうべきものがこの晩ほどはっきりと示されたライヴを、これまでに聴いたことがなかったように思う。
第二部の冒頭に登場した鈴木健雄は、30年以上昔のヴェッダ・ミュージック・ワークショップの時代から、竹田と活動をともにしてきた演奏家である。ひさしぶりとなる竹田との即興セッションには3台のレコーダーを持ちこみ、舞台下手の床に座りながら、レコーダーに吹きこんだホーミー(大雑把にいって、中央アジアの倍音唱法)の声をループさせ、再生音を機械的に少しずつ変質させていくという、13分ほどのシンプルなパフォーマンスをおこなった。即興によるデュオ演奏というより、鈴木のソロ・パフォーマンスに竹田がときおり音を重ねるというご祝儀セッションだったように思う。その直後、意外なことに、ロックビートに乗った「ホタテのロックン・ロール」の最初の部分をシャウトした竹田は、先ごろ他界した安岡力也について語りはじめた。シチリア人の父を持つ(隠された、隠したかった)彼の出自について触れ、突然の死の報せに、まるで自分の分身を失ったかのような深い喪失感を感じていると述べた。縁語的にフォーレの「シチリアーノ」が演奏され、また「大正琴でたまには演歌を演奏しないと」といって、クッションに竜徹也の「奥飛騨の女」が演奏された。つづくアイスラーの「自殺について」はストレートに英語で歌われ、そのあと、この晩の第二のゲストである木村由が登場した。打楽器的な竹田の演奏にともなわれ、20分弱という長い時間を、木村はステージ下手の床に置かれたライトと、背後の壁に投影される彼女自身の長い影の間でパフォーマンスした。
「大正琴即興独弾」を聴いて感じたのは、歌が、自分の外側の世界、それもはるかかなたの世界からやってくるというようなことだった。おそらくはメロディーもそうだろう。英語はもちろん、日本語と呼ばれるものも、大正琴のような楽器も、あれこれの音響ガジェットも、さらにはそのような文化的な道具立てばかりではなく、私たちを作りあげている遺伝子のようなものも、はるかかなたからこの場所へとやってきている。私たちはそのことになんの責任も持っていない。はるかかなたの世界からやってきて、はるかかなたの世界へと帰っていくものを、種を撒き、植物を育てるようにして、ほんの束の間この場所に根づかせるもの、私たちに内部と呼べるような領域を持たせるものは、竹田賢一のふたつの声のような、強い感情を帯びたエネルギー体だけではないかと思われる。強度、特異性、発光体、磁場というように、いろいろにパラフレーズすることができるそのものを、もしかすると私たちはこれまで即興と、少なくとも、即興演奏の一部分をなすものと、考えてきたのではないだろうか。考えてみれば、即興演奏と呼ばれる領域が発見されてまだほんの数十年しかたっていない。私たちに知られていないことなど、いまも山のようにあるのである。■
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