吉本裕美子 meets 木村 由
真砂ノ触角
── 其ノ弐 ──
日時: 2012年8月25日(土)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開演: 4:00p.m.、料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 吉本裕美子(guitar) 木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)
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ギタリストの吉本裕美子とダンスの秦真紀子が共同主宰する「tamatoy project」が、ここ三年ばかり、音楽とダンスのイベント「Irreversible Chance Meeting」を白矢アートスペースで定期公演しているが、ダンスの木村由は、その第2回公演(2011年)の参加者で、このイベントがきっかけとなって、最近ではミュージシャンと共演する機会がぐんと増えている。こうした経緯をもつ吉本と木村が、今年の一月、喫茶茶会記に会場を移し、あらためてデュオ・パフォーマンスに挑んだ。「真砂ノ触角」というタイトルは、明治期に活躍した俳人・正岡子規の短歌が元になっていて、そこになにか尖った感触のものをイメージさせる言葉が欲しいという吉本の希望で、「触角」が加えられたものという。「マサゴ」は触角をもった動物のようなものではなく、海浜の砂のように無数にある触角(アンテナ)のさまをあらわしたものということになる。そのようにいわれてみると、たしかに頭も尻尾もない吉本ならではの即興演奏の、いたるところに触角が出ている感じや、細かい動作をつないでパフォーマンスする木村の、周囲の空間を触診していくさまなどが、ともに「真砂ノ触角」を思わせないでもない。鋭さを含意しているのだろう言葉からは、触角がもつ昆虫感覚──すなわち、グレゴール・ザムザや芋虫のような変容した身体と、それとはまったく異質の、アンテナのような鉱物的なるものとを架橋するシュールなイメージも感じられる。8月25日には、喫茶茶会記で「真砂ノ触角」による二度目のセッションがおこなわれた。
とりあえず「即興」と呼んでおきたいが、サウンドと身体の具体的な動きに即していくと、ふたりのパフォーマンスに接することは、丈の高い雑草におおわれた穴ぼこだらけの原っぱを走っていくようなもので、ほんとうにどこでなにが起こるかわからない。対話するための窓口が決められているわけでもなく、パフォーマンスにクライマックスがあるわけでもなく、演劇的な、あるいは音楽的な物語も備えていないので、東西南北のようなもの、出口や入口のようなものがどこにもないのである。すなわち、始まりもなければ終わりもない。決められた方向性をもたないランダムな動きが、たくさんの触角をのばして、なにか身近にあるものを感じ取ろうとしている。しかしながら、そのようなパフォーマンスを聴くため、見るために、観客である私たちは、なにがしかのフレームを必要としており、「真砂ノ触角」にも、サウンドや身体とは別に、そのすぐ外側にあってサウンドや身体をフレーミングするもの──すなわち、東西南北のようなもの、あるいは出入口のようなもの──が用意されている。まだ木村が登場していないパフォーマンスの冒頭で、ギターを床に寝かせ、弦のうえに e-bow を乗せるインスタレーション的なスタートをした吉本は、パフォーマンスの最後に、ふたたびギターを床に寝かせ、弦をハウリングさせたまま退場するという時間的フレームを用意した。かたや、木村が用意した空間的フレームは、肩にかけた細紐で一升瓶を引きずりながら、楽屋口からピアノ横に置かれた椅子まで歩くというものだった。
時間的なもの、空間的なものを軸にして、「真砂の触角」には、形式的な始まりがふたつあり、形式的な終わりがふたつあったといえるだろう。考えてみれば、なぜ終わりがひとつでなくてはならないのかには、特別な理由がない。このような終わりを終わりと感じない観客のため、最後にはスタッフが会場を暗転にしたので、これが三つ目の終わりとなった。しかしおそらく、誰ひとり、そこでなにかが終わったとは感じなかったのではないだろうか。いうまでもなく、サウンドや身体に、劇的なクライマックスのような物語性が内蔵されていないからである。顔面白塗り、手の白塗り、肩の出た白いワンピースという出で立ちの木村由は、肩にかけた細紐で一升瓶を引きずりながら登場、下手奥で演奏する吉本の前を通過し、ステージを対角線に沿って横断すると、上手側の壁に置かれたアップライトピアノまでたどり着き、ピアノ椅子から転げ落ち、さらにピアノ横の椅子に座り、最後にそのうえに立つという流れでダンスをした。一連の流れのなかで、一升瓶を犬のように引きずったり、椅子のうえに立ったりする動作は、ちゃぶ台ダンスの縁語として感じられた。なにかを引きずる、家具のうえに立つという動作は、おそらく木村のイマジネーションのなかで、身体をジャンプさせるための重要な装置なのではないだろうか。一升瓶もちゃぶ台も、なんの変哲もない日常的なものだが、それらを引きずりながら歩く女性は、現実には存在しないシュールな絵柄で、そこに非日常の空間がいっきに立ちあがる。以前にも書いたことだが、木村の舞台装置は、そのようにして彼女の身辺近くにカスタマイズされ、亀が甲羅を背負うように存在していると思われる。
「真砂ノ触角」の吉本裕美子は、きわめて抑制的な演奏に徹していた。彼女のギターは、即興演奏の語法も含み、なにがしかの楽曲を想定して演奏されるわけではないため、コードとも、メロディーとも、リフとも、パターンとも判別がつかないミニマリスティックなサウンドを提示しつづける。偏愛するエフェクター類による音色変化以外(この日はエフェクターの使用すら抑制的だった)、コード・プログレッションに代表されるようなハーモニー的発展の方向をもたないのである。たしかになにがしかのサウンドが場所を満たしてはいるのだが、そこには私たちが通常「音楽」と考える内容が欠落している。サウンドはひたすらその場に滞留・蓄積するだけで、しばしば「浮遊感」と呼ばれるような、まるでサウンドが空中のひとところにホバーリングしているかのような印象を生む。60分ほどの時間ブロックを想定した吉本は、そのなかでサウンドを滞留・蓄積させつづけたが、一升瓶を引きずる木村由は、前述したように、もうひとつ別の軌道と空間配分と必然性のなかを動きながら、吉本のこの無時間的な世界を横切っていったのである。無数の触角を出しあい、相手をまさぐりあいながら、それでもなお、触れあうことそのものが目的であるかのように、共演者の領分を深く侵すことのないパフォーマンス。吉本の抑制的な演奏のなかで最も印象深かったのは、木村が登場する前にソロ演奏された音色旋律的アプローチだった。吉本が音響エフェクトに魅了されている理由が、エレクトロニクス風のサウンドを通して実感できる演奏だった。
木村由と照内央晴のペンギンハウス・セッション(8月21日)で、ピアニストは過去の(即興)演奏の記憶を参照して、共演者のために緩急のあるシークエンスを作っており、これに対してダンサーは、音楽があり、時間構造があるような演奏との間に、ズレや同期を作り出して即興的なパフォーマンスを構成していた。吉本裕美子も、たとえば、ドラマーの長沢哲と共演した「Fragments vol.9」(6月17日)では、長沢の構築的なドラミングのなかに組みこまれてリードギターの役割を与えられるなど、じゅうぶんに音楽的な演奏をしていた。これらの音楽セッションと比較すると、「真砂ノ触角」が扱っているのは、音楽とダンスというように、はっきりとした領域や形をもたないサウンドと動きの接触によってあらわれる、すぐれて身体的な出来事なのではないかと思われる。それは始まりもなく終わりもなく、ずれるという意識もないままに、ひたすら横へ横へとずれていくようなもの。おたがいに触れあうような場所がどこかにできたら、それがパフォーマンスのどの時点でも出発点となるような、出来事の場だったのではないかと思われる。拡張された即興演奏としての出来事の場、あるいは拡張されたダンス・パフォーマンスとしての出来事の場において、これから両者がどのような出会いを重ねていくのかに注目したい。■
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