2012年8月21日火曜日

長沢 哲: Fragments of FUKUSHIMA



長沢 哲: Fragments vol.11
Fragments of FUKUSHIMA
── Flags Across Borders ──
フェスティバル FUKUSHIMA! 世界同時多発開催イベント
日時: 2012年8月19日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 長沢 哲(drums, percussion)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)

【同時開催】
写真展「Flowers of FUKUSHIMA!
長沢卓が撮影したフクシマの山野草の花々の写真を展示



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 八月の真夏日、新たに作られたスローガン「Flags Across Borders 旗は境界を越えて」を合言葉に、第二回<フェスティバル FUKUSHIMA!>は、8月15日から26日までの期間、福島県の各地域をリンクしながら開催されているが、そればかりでなく、これは前回のフェスティバルでも試みられたように、公演の趣旨に賛同して開かれる全国各地のイベントをリンクするという、ネット時代ならではの戦略も立てている。広島や長崎の夏は、福島の夏にもなったのである。江古田フライング・ティーポットで開かれている長沢哲の<Fragments>シリーズは、長沢自身が福島県の出身者であり、現在も故郷に多くの知人を持つところから、もともとが3.11後の破壊的な状況に対する音楽的な応答として構想されたものであったが、<フェスティバル FUKUSHIMA!>の開催期間というこの特別な日を選び、ゲストを迎えるいつものスタイルにかえて、長沢がライフワークにしている打楽器ソロだけで臨む「Fragments of FUKUSHIMA」を開催した。この公演は、今回、冊子にまとめられた<フェスティバル FUKUSHIMA!>のプログラムの、世界同時多発開催イベントの項に情報が掲載されたコンサートのひとつでもあった。当日の会場には、故郷への思いを形にするため、いまも福島に居住する実父の長沢卓が、3.11後に撮影した花々の写真も展示された。

 第一部は30分、第二部は40分ほどになったソロ演奏の冒頭で鳴らされたのは、すぐ減衰してしまう金属の響きだった。大きなシンバルのうえに、おちょこになった傘のように取りつけられた小型シンバルの音だとか、大型のものでも、中央の丸くなった部分をたたいて出される鐘のような響き。リズムはなく、演奏者の耳は一打一打のサウンドに没入している。楽器のサウンドひとつひとつに向かいあい、そこから固有の声を引き出そうとするようなこの姿勢は、演奏の構成にも感じられるものだが、私には風巻隆の打楽を連想させるものである。サウンドの組みあわせ方において、両者の感覚がまったく異なるものだとしても。静かにならされる金属の響きは、言うまでもなく、今次の大震災で亡くなったたくさんの死者たちに対する黙祷だった。冒頭に置かれたこの儀式的時間は、この日の打楽ソロが、レクイエムとして演奏されることを示していた。黙祷の時間にウィンドチャイムで一区切りをつけると、引きつづくシークエンスは、個人的にはフリッツ・ハウザーをつねに想起させる(長沢本人に確認したところ、ハウザーの演奏は聴いたことがないというので、これは他人の空似ということになるだろう)、フラッター現象をともなって波打つミニマルなシンバルの連打に移行した。長沢の演奏ではおなじみのものである。死者たちへの黙祷のあとでは、これが海嘯のように響いた。シンバルの余韻を残しながら、大小のタムに移行すると、長沢ならではのトーキング・ドラム風の語りかけがはじまる。少しずつサウンドを変え、アクセントを変えながらも、演奏は継ぎ目のないスムーズな流れを作り出していく。

 楽器ひとつひとつの声を聴きとろうとする静かな演奏と、ドラムセット全体をスウィングさせるようなダイナミックな演奏をサンドイッチにすることでメリハリをつけながら、長沢哲の打楽ソロは、次第にクライマックスへと接近していく。楽器の声を聴きとろうとする受け身の耳と、楽器を通した積極的な自己表出が、ふたつながらイーヴンにおこなわれる演奏。着地まで入念に計算している(と思われる)完成された長沢の打楽は、基本的に構築的なものであり、一時期のフリージャズがそうであったようなもの、すなわち、そのときどきの感興にまかせた感情解放が目的にはなっていない。たとえば、少し前、10弦ギターの高原朝彦との即興セッションで、高原がそのような展開をしかける場面があったが、長沢が応じることはなかった。第一部の終わりには、ふたたびあの黙祷の時間が戻ってきた。今度はかなり長い時間が黙祷にささげられた。第二部の冒頭でも、鉄琴による可憐なメロディーの提示があったが、祈りという点では共通していても、こちらは黙祷ではなく、おそらくはいまを生きるものたち、端的に言うならば、この日開かれた「Flowers of FUKUSHIMA!」の花々に捧げられたもののように思われた。第二部は、鎮魂から希望に向かうものとしてコンサート全体が組み立てられていたことにもよるのだろう、かなりエネルギッシュな演奏が展開された。

 第二部の中間で、福島の山野に咲く、あの可憐な花々を思い出させる鉄琴のメロディーがふたたびあらわれると、それから以降は、タムからバスドラへとバトンタッチしながら、聴き手の緊張感をとぎらせることのない連続したパターンが続き、最後の瞬間には、大太鼓をひとつまたひとつと打つような、訥々としたバスドラだけの演奏になった。第二部にあらわれたこの長いシークエンスは、もはやおしとどめることのできない人々の足音なのだろうか。あるいは、過酷事故を起こし、廃炉までどのくらいかかるかわからない壊れた原発の、けっしてやむことのない炉心の “鼓動” なのだろうか。いずれにしても、私には、これもまた物語の一部をなす象徴的なサウンドの提示として聴こえた。聴くものに語りかけてくる長沢哲の打楽は、単にそのように聴こえるドラミングをしているだけではなく、実際に何事かを語りかけているのではないだろうか。音は言葉のように細部まで意味を伝えてはくれないが、「Fragments of FUKUSHIMA」のような特殊なテーマをもったコンサートならば、サウンドが語りかけてくる言葉を補って聴くことも許されるのではないかと思われる。そのような聴き方が普遍的とは思わないが、ことここにいたるまでの演奏者の感情も、けっして無視していいものとは思われない。

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