楽道庵 月曜ws
日時: 2014年3月24日(月)
会場: 東京/神田「楽道庵」
(東京都千代田区神田司町2-16)
【ストレッチ&体操】
時間: 7:00p.m. - 8:10p.m.
【身体表現の稽古】
時間: 8:30p.m. - 10:00p.m.
料金: 各¥1,000/両方参加の場合: ¥1,500
進行: 亞弥
ゲスト講師: 森重靖宗(cello)
予約・問合せ: snackpunk@gmail.com
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墨痕たくましく「楽道庵」(らくどうあん)と揮毫された大きな看板が扉の左脇にかかる玄関を入ると、テーブルに置かれたカタツムリのライトが、小さな靴脱ぎ場を薄暗く照らし出している。外履きからスリッパにはきかえ、すぐ目の前にのびる細い階段を登った二階が、ダンサーの(田中)亞弥が進行役を務め、毎週月曜日に開催される身体ワークショップの会場だ。ダンスはもちろんのこと、広く身体を使った表現の稽古にあてられる第二部では、他のダンサーや演奏家を講師に招いて、個性的なワークの方法を体験してみたり、ぶっつけ本番の即興セッションをしてみる実践的な場がもうけられている。特徴的なのは、参加者のサイドから、演奏や照明に注文が出せる点だろう。これらもすべて、実践における気づきの要素といえるものだ。参加者は、独自に表現活動の場を持っている人たちが多い。演奏家と即興でおこなうセッションに関しては、ジャズのジャムセッションがそうであるように、半分は、気づきのきっかけとなる体験学習であるとしても、あとの半分は、本番と変わらないステージそのままという性格をあわせもっている。実際にやってみなければたしかなことはわからないという、身体表現の特徴といえるだろうか。
そのとき呼ばれたゲストの意向もあるだろうが、ワークの段取りはおおむね決まっていて、最初のセッションは、途中休憩のないひとつらなりの演奏のなかに、参加者がひとりずつ交代で入っていく形をとる。そのとき、先行者と後行者が重なり、少しだけデュエットになる時間帯がある。身体を使いながら、先行者がどのように後行者にバトンを渡すのか、あるいは逆に、後行者がどのように先行者からバトンをもらうのかについても、その場での即興的なアイディアや判断が試されることになり、見たところ、これは少し高度なワークの課題となっているようである。かたや、二番目のセッションは、演奏者との相対でおこなわれ、一回のセッションごとに休憩が入り、照明や演奏に対する参加者の要望があれば、述べていいことになっている。これまでに何度か招かれたゲスト奏者のほうから、アイディアが出されることもあるようだ。会場使用の時間制限があるので、参加人数の多いときは、一回あたりのセッションが短くなってしまうが、少ない場合には、ひとつの作品を構成するのにじゅうぶんな時間を確保できる。チェロの森重靖宗を迎えた日は、進行役の亞弥を加えて女性三人の参加者だったため、各自に20分ずつの持ち時間が割りあてられた。
この日、第二部でおこなわれた亞弥のパフォーマンスは、「作品」と呼ぶにふさわしい内容を備えていた。参加者以外に見学者(観客)のいないワークにおいても、身体表現を身体表現たらしめる一回性の出来事は起こりうる。というよりもむしろ、出来事はいつどこで起こるかわからない。楽道庵の階段口にある柱を背中にして座ったチェロ奏者の目の先、壁際に横になった亞弥は、惚けたように口を開け、全身を脱力した。演奏がスタートすると、いったん身体を胎児のようにまるめていき、時間を使って身体の中心にエネルギーを凝集すると、今度は、ゆっくりと手足を開き、開いた手足を、まるで生長する植物の蔓のように天井に向かってのばしていくことで、身体に充満したエネルギーを周囲へと解放していく。力を入れて強く拳を握ってから、大空に向かって五本の指を全開するようなベーシックな動き。手足の伸びきったところで、天井からの照明が足もとからのライトに切り替わると、亞弥は両立て膝をした姿勢で床に座り、明かりがまぶしいという具合に、両手で顔をおおった。いつのまにか胎児が子どもに変身した印象なのだが、そうしたイメージを別にすると、ヨガ的な動きの連鎖も加味されているように感じた。
ワークのなかで出来事が起こるとき、そこにいる演奏家の存在もまた、欠くべからざるものであることが明白になる。いうまでもなく、演奏家たちは、パフォーマンスの演出役として招かれるわけではない。特に、共演者の存在に強く働きかける即興演奏は、ダンスする身体が環境にみずからを開くとき、深々とした感情の交換をおこなうことになる。過去の共演から見ても、亞弥とはもともと相性がいいように思われる森重であるが、この晩も、かすかに弦に触れる触覚的なノイズを中心にした催眠的な演奏を聴かせ、亞弥のパフォーマンスを包む楽道庵の暗闇を、さらに奥深いものにしていた。横になった床の位置をまったく動かずに演技した亞弥だったが、細かく変化していく微細なノイズで聴き手をさまざまに触発するチェロの響きによって、広大な空間のなかに解き放たれていたように感じられた。サウンドからサウンドへと経めぐっていく終わりのないチェロの旅、起承転結のような堅固な構成をもたない森重の演奏にくらべ、闇からはじまって闇に戻っていった照明の転換は、生きもののベーシックな動きを扱う亞弥のダンスに、物語的な色彩を与えた。すべてがまるであつらえたように起こる。これが出来事の同時多発性というものなのだろう。■
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