2014年3月10日月曜日

細田麻央の人形ぶり@土方巽・生誕祭


土方巽・生誕祭
ラッタ舞踏学院×ヴェクトル美人派
日時: 2013年3月9日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 6:00p.m.、開演: 6:30p.m.
料金/予約: ¥2,500、当日: ¥3,000
出演: 第一部: ラッタ舞踏学院「春・ズンズンズン」
Novko
いとうまく(guitar)Inner Trance Organ
鳥賀陽弘道(bass)、磯部智宏(percussion)
第二部: Clean, Clear&Cool-Concert Show
Trance-Romance(ヴェクトル美人派)
成瀬信彦(舞踏歌)、“オブジェンヌ” 細田麻央(dance)
協力: 奥山 孜
音楽: 早川善信(hyper-improvisation)
照明: 早川誠司
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)



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 39日(日)は、土方巽の誕生日だという。明大前キッドアイラックアートホールでは、<ラッタ舞踏学院>と<ヴェクトル美人派>が、それぞれのパフォーマンスをわけあう「土方巽・生誕祭」が開催された。公演の第二部で、<ヴェクトル美人派>の作品「Trance-Romance」に出演した細田麻央は、「オブジェンヌ」(女性の形をしたオブジェ)の役どころで人形ぶりのダンスをおこなった。第一部が終了したあとの休憩時間から、白いヴェールをかけられた状態で、荷物のように客席に置かれたオブジェンヌは、開演とともに黒子に担がれ、ステージ中央へと運ばれる。黒子が階下の楽屋に通じる奈落の蓋をあげると、そこから悪魔にも魔術師にも見える全身黒づくめの衣装に身を包んだ成瀬信彦が登場。細田の周囲を回りつづけながら、長髪をかきあげ、笠井叡が公演のなかでしてみせるような饒舌さと扇動的な口調で、「舞踏歌」と名づけた即興的な語りをし、ときおりヴェールのうえから細田の頭に手をかざす。魔術師の呪いか、作品に生命を与えたいと願う芸術家の欲望か、やがてオブジェンヌはぎくしゃくと動きだし、みずから白いヴェールをはねのけて、人ならぬ機械的な動きを意味もなく連ねていく。これがピュグマリオン神話を下敷きにした作品であることは、いうまでもない。

 「Trance-Romance」公演の核になっているのは、もちろんオブジェを人称化する細田麻央の人形ぶりである。しかし、ここで踊られたオブジェンヌの人形ぶりは、ピュグマリオン神話をそのままなぞるようなものではなかった。人形から人間へという一方通行の物語として整序されたものではなく、つねに人形と人間の間にある薄暗闇の領域──物質と身体の境界とでもいうべきもの──をさまよいつづけるいまわしい存在として出現したように思われる。すなわち、用意されたのは、見るものを安心させるハッピーエンドの物語ではなく、ゾンビとして蘇った最愛のものを愛せるのかといった、こたえることのできないショッキングな問いの提示だったといえるだろう。現代的であり、悪夢的であるような、終わりのない物語。ピュグマリオン神話との間にある相違は、意図的なものというより、おそらくはこうした身体観の変質によってもたらされたものだろう。喜びも悲しみもなく、行為の意味も持たずに、ただ不気味なものとして出現するオブジェンヌの動き。先達の魂を神降ろしする「土方巽・生誕祭」の儀式に臨み、ピュグマリオン神話を宙づりにする身体を形象することで、<ヴェクトル美人派>はなにを示そうとしたのだろうか。

 人形ぶりについて触れておくべき点は、それが写真に写らないということであろう。マリオネットなりロボットなり、イメージの源泉を映像にとどめることはできても、ストップ&ゴーで構成されるぎくしゃくとした動きそのものを、写真から想像したり再構成したりすることは不可能である。もちろん、人形ぶりが写真に写らないのは、ストップ&ゴーする機械的な動きの配分を、カメラがすべてストップモーションしてしまう写真の特性によるものだが、細田麻央が踊ったオブジェンヌのダンスにおいてそのことが致命的なのは、人形と人間の境界線上を千鳥足で往来するとき、彼女がときどきの瞬間におこなう人形ぶりの選択が、出来事の核心になっていたからである。その選択の微妙さを、ストップモーションが「均質化」してしまうことで、踊りそのものも見えなくなってしまう。ある踊りのあるシークエンスに、部分的に人形ぶりを使うというケースならば、そこでの人形ぶりの採用を示せばいいということもあるだろうが、ここでは採用されたいくつかの人形ぶりの違いを違いとして、映像のなかに刻印できなくては話にならない。瞬間瞬間で、動きの意味を切断していき、ひとまとまりの長いシークエンスを描き出さない人形ぶりは、写真に残らない特異なダンスを構成する。

 細田が演じるオブジェンヌの動きは、動きが描き出す(はずの)意味を、次々に切断していくことで構成されていく。一般的な比較とはいえないが、即興演奏でいうなら、故デレク・ベイリーの演奏スタイルを引きあいに出すことができるだろう。たとえば操り人形のように、手足の動きの支点を身体の外側に置くこと、突然、糸が切れたように身体全体を沈めること、あるいは浄瑠璃人形のように、首を棒につけて胸のあたりから(誰かが)回すように回すこと、あるいはロボットのように、胸のあたりに動力を置くイメージで動くこと、さらには人間としか思えないようなスムーズでやさしい動きをしてみせること。オブジェンヌの動きは、こうした複数の人形ぶりからなりたっている。複数の人形ぶりは、ときおり挿入される人間的な動作からも、意味を剥奪してしまう。長いつけ爪をした成瀬の手も、細田の頭のうえで、ときに操り人形師の手を連想させる動きをしたが、これはふたりの登場人物の間に意味を発生させてしまう点で、逆効果ではなかったかと思う。盲目的なゾンビの食欲、孤独なフランケンシュタインの苦悩、労働するロボットの従順さ、そうした人形たちの感情からも遠ざかって、オブジェンヌは草食系アンドロイドのような身体を身にまとっていた。

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