2014年6月7日土曜日

阿久津智美×古田登紀子@喫茶茶会記



阿久津智美 × 古田登紀子
THREE TIMES DUO SERIES 2
[2回目]
日時: 2014年6月6日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 阿久津智美(dance) 古田登紀子(光・写真)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 ダンス公演における光と身体の関係は、赤く染まった光が夕方らしさを演出するというような、演劇的な場面解説の使われかたを別にすると、基本的に、ライトの位置によって決定される光の方向や舞台を照らし出す光量によって、踊る身体がこれから参入していく空間構造を(あらかじめ)素描したり、光量の増減や点滅によって、視覚的リズムを与えたり、衣裳や大道具・小道具などの舞台装置が変わらなくても、観客に場面転換をわからせたりするなどの時間分節をおこなうというのが、一般的なように思われる。つまり、光はあくまでも身体がどのようなものであるかを見せる媒体(それ自体は不可視のもの)としてあり、当然のことながら、光そのものがみずからを主張したり、出来事の中心に居座るようなことはない。舞台をまなざす観客の視線が、たとえある瞬間に、光を魔術的な出来事として感覚していたとしても、その魔術的な出来事は、踊り、演技する身体が引き起こすものとして、あるいは、公演の全体からかもし出される魔術的な魅力として受け取られることだろう。光そのものにスポットをあてたり、問題化したりするためには、このようにして惰性化され、目の前にあるのになにも見ていない私たちの意識に直接働きかけるような、なにかしらの戦略がなくてはならない。

 54日(金)喫茶茶会記にて、ダンスの阿久津智美が、15年来の交友がある写真家の古田登紀子を迎え、連続3回のマンスリー公演で構成する「Three Times Duo Series」の第二弾をスタートさせた。ダンス公演を引き立てる照明というのではなく、光に対する写真家ならではの感受性や考え方を踊りにぶつけることで、光と身体の間に新しい関係を結びなおそうとする実験シリーズだ。初回の公演は四部構成でおこなわれた。(1)楽屋口からさしこむ薄暗い光のなか、電池で作動する手製のメトロノーム(つまみを回してスピードが連続的に変えられる)を、あるときは手に持ったり、あるときは床に置いたりしながらおこなう暗闇のダンスと、会場の数ヶ所に設置され、不規則に炊かれるフラッシュがあやなすリズムの交錯、(2)センターステージ後方に置かれた長身スタンドの足元と尖端に暖色のライトがつけられ、ゆっくりとした光量の増減のなかでおこなわれる奥壁の前のダンス(壁は茶色い縦格子の外側がとりはずされ、白地がむき出しになっていた)、(3)暗転した会場で、白色のライトを振り回しながらおこなう動きの大きなダンス、(4)ふたたび明かりがともった長身スタンドを、ステージ中央から壁際まで押していった阿久津が、ピアノ椅子に座ったり、壁に寄りかかって逆立ちしたりするうち暗転、終幕という内容だった。

 66日(金)におこなわれた第二回公演で、阿久津は、前回そこで終わった(と本人が考える)ピアノ椅子からダンスを再スタート。かたや、楽屋口にスクリーンを張ったため、ステージの様子がまったくわからない目隠し状態のまま、楽屋のなかでパフォーマンスをすることになった古田は、楽屋のなかに設置されたもうひとつのスクリーンを通して、外側のスクリーンに色や光を投影していった。楽屋全体を使ったこのパフォーマンスは、いうまでもなく、カメラ・オブスクラ(もともと「暗い部屋」を意味する言葉だったものが、撮影機の暗箱を意味する名前に転化した)を反転させた巨大なカメラというべきものであり、反転のさまが、バルトの写真論『明るい部屋』を想起させるものでもあった。つけ加えるならば、カメラと幻灯機(プロジェクター)はそもそもが同じ構造をしており、出発点となる光源が暗箱の外側にあるか、内側にあるかという相違が、両者のありようを決定することになる。楽屋口のスクリーンに映し出される光のゆっくりとした減衰は、窓からさしこむ昼間から夜へと向かう日の移りを思わせた。ダンスもまた、途切れることのないこうした光の持続性を受けて、前回のように明確な場面の転換点を持たず、ひとつの部屋のなかで夜の訪れを待ちつづけるような雰囲気のなかにあった。

 楽屋口のスクリーンに間接照明された、こちら側の部屋でのダンスは、ピアノ椅子に戻って動きをリセットしていく何度かの反復のなかで、小さなライトを照らしたり、手製のメトロノームを鳴らすなど、随所で前回の公演を想起させながらおこなわれた。楽屋口の光がだんだん弱くなり、ダンスする阿久津の姿が薄暗闇に包まれ、やがて暗転すると、下手の壁に飾られた鉄の車輪の場所を出発点に、小さなライトを手にしながら暗闇のなかで舞う場面がつづく。これもまた前の公演を踏襲したものだった。(後で聞くと、ここで古田は楽屋から這い出し、写真撮影をはじめたというが、暗闇のなかでのダンスに意識が集中して、私は彼女の動きに気づけなかった。)最後の見せ場は、弱い天井の光のなかでおこなわれた、ピアノ椅子をダイナミックにふりまわしながらのダンス。仰向きに倒れた椅子に、阿久津が仰向きに腰かけて静止すると、ふたたび楽屋口のスクリーンにほんのりと明かりがともり終幕。シリーズ第二回における光と身体の関係は、出演者たちが、おたがいの動きが見えないという条件を採用したこともあって、それぞれのパフォーマンスが、それぞれに意図をはずれた環境として働いたように思う。スクリーンがとらえた間接照明の光は、いわば光の視覚化というべきものであり、フラッシュ光によってダンスに介入した前回と異なり、ここでの身体は、ゆっくりと変化する光への触れかたを、ダンスにしていたように思われた。



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