南 阿豆 舞踏ソロ
regeneration(リジェネレーション)・誕生
日時: 2014年8月29日(金)~31日(日)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
リピーター: ¥1,000(要チケット半券)
照明: 池野一広 音響: 本木克昌
制作: コンテンポラリー田楽事務局
*構成の異なる29日と30日の公演をまとめて扱いました。
♬♬♬
あくまでも私見として述べれば、一般的なダンス作品と違い、かけがえのない「この私」が抱えている身体性への気づきや発見をモチーフにする舞踏の場合、作品が人々に受け入れられることは、他者の視線を鏡にして、みずからの身体の核と呼べるようなものに接近していく行為のように思う。すべてのダンスにそのような要素がある、すべての踊りに「この私」が介在しているということに端的に気づかせてくれるのも、舞踏ならではのこと(あるいは、決定的な身体観の変容とともに訪れた、「ポスト舞踏」と呼べるような環境によるもの)ではないかと思う。ひとつの作品の成功は、踊り手の固定的なイメージを形作るが、その一方で、作品の踊りを支える身体は、さらにみずからの核への接近をくりかえすために変化を求める。『スカーテッシュ~傷跡~』シリーズで舞踊批評家協会新人賞を獲得した南阿豆が、『誕生』によって刻印しようとした新たなスタートも、そのような踊り手の意欲に支えられた行為としてある。もちろん傷跡は消えることはない。むしろ年齢とともに成長していくといっていいだろう。観客はそこに場面の転換を見るのではなく、積み重ねられる身体のようなもの、すなわち、「傷跡」に重ねられるもうひとつの身体を、「誕生」という別のレイヤーのなかで見ることになるはずである。
『傷跡 II』(2012年11月)『傷跡 III』(2013年9月)の会場になった中野テルプシコールで、8月29日から31日までの3日間、南阿豆の舞踏ソロ公演『誕生~Regeneration』がおこなわれ、その初日と中日を観劇した。内容や構成は変わらないものの、衣裳を脱ぎ捨てるポイントなど、作品には大きな手直しが加えられて、それはみずからの身体をどう感じながら踊るかというダンスの重要な部分に、変化を、それもいい変化をもたらしたように思う。テルプシコールの特徴になっているコンクリート壁の全面を、正面、下手、上手と、蚊帳をつるしたように緑のカーテンでおおったのは、(舞踏のメッカという)場所の特性を消すためだろう。めさざれたのは、おそらくむき出しの身体を変容にさらすため、深い森のような、子宮のような生命の場所を用意すること。「傷跡」シリーズでは、彼女自身の描いたひまわりの絵が、ステージの正面奥に二幅の屏風のように置かれ、ダンス空間を構造化する重要な装置の役割を果たしていたが、そうしたことのいっさいが今回は排除された。これが『傷跡』から離脱するという決意、すべてがはぎ取られ無名となった場所に、南の身体が原点回帰していく物語でなくてなんだろう。ここでいう『誕生』とは「regeneration」のこと、すなわち何度目かの生まれなおしのことであり、もしかすると『傷跡』のように、今後継続するシリーズにおける少しずつの変容としてあらわれてくるのかもしれない。
おだやかな場面とアップテンポの場面が交代で訪れる作品の概要は以下の通り。(1)楽屋口の横のあたりでオルゴールを鳴らす。初日はダンサーが実際に鳴らし、二日目は音響係によるオペレーション。いったん暗転したあと、(2)最初の位置から上手客席前の照明にむかいステージを斜めに横断する。ゆっくりとした前進と後退。(3)出発点に戻り、スポット内でのブリッジを起点に、アクティヴに点滅する上手下手の床ライトに照らされながら、激しく床を転げ回る場面。初日と中日ではリズム感に違いが感じられた。(4)床に仰臥した姿勢で、手足をゆっくりと天井にのばしていく。舞踏の型として見慣れたものだが、型に息吹を吹きこむ身体の動きは、植物と動物を混淆したような、あるいは、その間を連鎖する不思議な生命体のようだった。(5)場面の後半で背面ダンス。初日は正面を向いたまま(背中を封じて)、二日目は背中を見せておこなう。(6)赤いライトが入ると、狂気(の演技)のなかで、金色の上着とショートパンツを脱いで遠くに投げ、ショーツ一枚になる。転調。これは初日のみ。中日では(2)の段階ですでにショーツ姿となり、観客に背を向け、胎児のように背中を丸めて横になった。背中を見せる演技が中心になるよう、構成が変えられたと思う。(7)最後の場面は、最初の場面に回帰(反復されるregeneration)して、観客に背をむけ、胎児のように身体を丸める姿勢のまま静止。突然立ちあがると、驚いたように観客席をふりかえるところで終幕。
最後の場面と冒頭の場面をループ状につなぎ、物語の開始点と終始点を解消したのは、迷宮的な演劇構造の応用だが、同時に、『傷跡』から一歩を踏み出すために構想された『誕生』が、一方通行の身体的変容として踊られたのではなく、行きつ戻りつの往還作業になっていることを暗示しているように思われる。踊りが陣痛期にあるのかもしれない。二日目に背面ダンスを復活させたのは、それがダンサーにとっていまも身体のリアルとして感じられているからだろう。そして踊りはそのような感覚との対話のなかでしか成立しないはずなのだ。背中をくねくねと動かすような動きで、皮膚の下の背骨やあばら骨を浮き立たせる南の背面ダンスは、人間的なものより、それ自体が別の目的を持って動いているかのような、生物的なありようを感じさせる。おなじことは、仰臥した身体からワラワラと生え出てくる手脚の動きにも、床を転げ回る身体にも感じられるものだ。固有名を持った踊り手の「表現」ではなく、もっとずっと下の位相にある生物的なものを沸き立たせる踊りといったらいいだろうか。捨てても捨てても蘇ってくる(regenerationする)リアルな身体とは、クリシェ化した身体イメージとは別のもの、換言すれば、それこそが観客の抱えている身体との通路になるようなものと言えるだろう。■
※写真:小野塚誠
【関連記事|南 阿豆】
「南阿豆舞踏ソロ: スカーテッシュ~傷跡Ⅲ~」(2013-09-15)
-------------------------------------------------------------------------------