2014年9月27日土曜日

横滑ナナ 舞踏ソロ: 楼夜 Night Collapsed of Nana


横滑ナナ: 舞踏ソロ
楼 夜
Nana YOKOSUBERRY Butoh Solo
“Night collapsed of Nana

日時: 2014年9月25日(木)&26日(金)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
開演: 8:00p.m.(25日)、7:30p.m.(26日)
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
出演: 横滑ナナ(舞踏)
照明: 三枝 淳 音響: ワタル
音楽協力: 舟沢虫雄、成田 護
予約・問合せ: nanasuberry@gmail.com(横滑)

*小野塚誠 写真展示「写心」の同時開催あり。



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 春季と秋季の二度にわたり、公開稽古でもなく、公演でもない身体の検証シリーズ「五つの夜」を開催した横滑ナナは、観客のための演出がほどこされていない素のパフォーマンスを反復することで、みずからの身体に問いかける日々の地道な作業を公開してみせた。このシリーズは、秋に予定されていた舞踏ソロ『楼夜』に向かって、身体のありどころを探る試みにもなっていた。「五つの夜」の踊りは、身体を通して内面の作業を積み重ねていくという点で、即興演奏のライヴによく似たものだが、舞台演出が加わる『楼夜』の本公演で、こうした身体の探究作業がどのような作品に結実していくかに、私の個人的な関心は集中した。『すなのおんな(Nana in the Dune)』(201111月~20126月)、『砂楼(Tower of Sand)』(20129月)、『風楼(Nana in the Dune)』(201310月)、『かぜのはしわたり』(20141月)というように、ここ数年の横滑公演をならべてみると、風や砂にこだわったタイトルだけでもテーマの連続性が推測されるが、ソロ公演ではこれが演出によって前面化される部分になってくる。『楼夜(Night Collapsed of Nana)』は、これまでのイメージに新しく「夜」を加えたことになるだろう。しかも倒壊する夜である。

 公演冒頭でステージが暗転すると、砂色の衣裳をまとった横滑が、薄暗いオレンジの光を背後から浴びて影になりながら、穴蔵のようにみえる楽屋口から這い出してきた。はたしてこれは人か動物か。前進と後退のたくみな足さばきによって、観客席に身体の正面を向けながら、ゆっくりと下手から上手に移動。やむことのない砂嵐の音響は、風や波のイメージにも通じ、横滑が持っている空虚なるものの世界観を背景にしている。上手までたどりついたところで、強烈なライトを真正面から浴び、背後の壁に大きな影を投げながらの演技。ふたたびステージ中央まで歩みを運んだところで、彼女の身体は糸が切れたように床に投げ出され、細かな身体の動きによって凝縮されていた密度のある空間を、いっきに解き放つ場面へと移行した。遠い国の理想郷を歌ったゴダイゴの「ガンダーラ」が流れる。リズムをはずしながら、踊りはねるような横滑のステップ。最後にやってくるのは、観客席の手前で石のように身体を丸めた横滑が、ゆっくりと立ちあがり、つま先立ちになって両手を天井にさしのばしていく場面である。天井さしてのびていく身体を宙づりにする照明のフェードアウトによって暗転。この場面は、途中から挿入されるピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」ともども、きいろろ聡明堂でおこなわれた秋の「五つの夜」でも、最後の場面になっていた。ちなみに、クライマックスの直前、床のうえで石のように身体を丸める動作は、ふたつの「五つの夜」の双方に出現していた。

 一般的にいえば、演出によって踊りに与えられるのは、動きを外側から意味づける物語といえるだろうが、踊る身体そのものに着目すると、「五つの夜」と『楼夜』の間には、共通する構造があるように思われる。それは前半と後半におこなわれる二種類の緻密なダンスを、動きを脱文脈化する、速い、開放的なダンスによって二分するという構成法だ。詳細ははぶくが、駒込ラグロットでの最底辺のアリーナを使った激しい動きのパート、あるいはきいろろ聡明堂でのアルコーヴを使った活人画のパートが、それぞれ動きのピボットを構成していた。『楼夜』ではゴダイゴの「ガンダーラ」がこの部分に相当する。これらは、公演の全体を意味づける物語にかえて、種類の異なるいくつかの踊りをつなげたり、身体の質感や動きが生み出す変化のあるイメージを連結してリズムを感じさせる手法となっている。もうひとつ、横滑の踊りには「日常的な世界への回帰」というテーマもよく見られ、これも物語ということができるだろうが、テルプシコールが劇場空間だったせいか今回は登場しなかった。さらに共通点を探せば、砂嵐の音響が強力にイメージを支えた『楼夜』前半の場面は、きいろろ聡明堂で潮騒の響きとともに踊った前半の場面に相当するが、さらに──私自身は未見だが──駒込ラグロットでの『すなのおんな』三部作にも通じているように思われる。いずれにしても強力なダンスであった。

 『すなのおんな』に直結する『楼夜』前半の緻密な踊りから、ひとつのメッセージを受け取ることができる。というのも、『すなのおんな』にインスピレーションを与えたのは安部公房の『砂の女』(1962年)であり、この寓意小説は、崩れる砂のようによりどころのない戦後大衆社会の閉塞感を描いたものだからである。すべての人間が平凡化していく大衆社会の閉塞感は現代にも通じており、舞踏家はこのことを危機的なものとして感じているのだろう。ここではない、非在のユートピアを歌う「ガンダーラ」の理想主義から、天上的な価値を希求する身体を提示してみせる後半は、反時代的な、異形の身体を提示する舞踏的な手法と真逆のものといえるだろうが、これこそはまさに、舞踏する身体を肯定的なものに価値転換したうえでの、横滑ならではの異議申し立てといえるだろう。暗黒舞踏がダンスの概念を拡張する革命的芸術運動であったことを考えれば、横滑のダンスは、造反有理の舞踏と呼ぶべきものになっている。物語ではなく、身体の提示をもってするヴィジョンの表明。つま先立ちをして身体をのばし、両手を高くさしあげるクライマックスの場面には、さよならの手をふる情感的な動作が、それとなくはさみこまれていた。しかしながら、こんなふうに『楼夜』で示されたものを追っていくと、最後のこのしぐさが、「さよなら」から「こんにちは」の挨拶に反転して見えてくるから不思議である。私たちは、この反転に賭けるダンサーの命がけのジャンプを感じ取るべきであろう。


 *写真:小野塚誠



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