2025年5月20日火曜日

振付とサンプリング技術──ニューダンス研究会 公開プログラム2025「ニューダンス・テクノロジーズ」

 



ニューダンス研究会

公開プログラム2025

ニューダンス・テクノロジーズ

横浜 Dance Base Yokohama



◉「ニューダンス・テクノロジーズ」は2023年にパフォーマンスユニット「チーム・チープロ」とダンス批評の桜井圭介によって始動したプロジェクト。とある場所に繁茂している「動き」の収集・再構成・アーカイブ化をおこなったうえで、それらにもとづくダンス作品の上演を目指している。 ◉このプロジェクトの最終目標は、フォーサイスの「インプロビゼーション・テクノロジーズ」に匹敵する、コンテンポラリー・ダンスの新しい身体技法のアーカイブをWEB上で公開し、全人類、ダンサーが使用可能なものとすることである。◉なお、「とある場所」がなんなのかについては、いずれ行うこのプロジェクトの最終発表後に公表する予定。現段階では「ニューダンス・テクノロジーズ」におよそ1000個くらいの「動き」がアーカイブされると予想している。◉今回は、その途上の試みとして、ダンサー・振付家の捩子ぴじんを迎え、「動き」の収集・再構成・アーカイブの作成とそれにもとづくダンスの試演を行う。今後も徐々にメンバーを増やしながら最終発表とアーカイブ公開に向けて活動してゆく予定。


「ニューダンス・テクノロジーズ」とは



【プログラム構成】

(1)レクチャー

K-POPダンス動画をみまくる会

講師: 桜井圭介

日時:2025年5月5日(月)

開場: 14:50、開演: 15:00


(2)ショーイング+トーク

ニューダンス・テクノロジーズ(WIP)

出演: ニューダンス研究会

松本奈々子、西本健吾チーム・チープロ桜井圭介捩子ぴじん

日時:2025年5月19日(月)

開場: 19:20、開演: 19:30


(3)ワークショップ

ニューダンス・テクノロジーズをつかってあそんでみよう

ナビゲーター: 松本奈々子

日時:2025年5月23日

開場: 19:20、開演: 19:30


会場: Dance Base Yokohama

(神奈川県横浜市中区北仲通5-57-2 北仲ブリック&ホワイト3F)

主催: ニューダンス研究会

共催: Dance Base Yokohama



 松本奈々子、西本健吾からなるチーム・チープロがダンス批評の桜井圭介と結成したニュー・ダンス研究会のことは、ユニットが初年度の「かつてなく自由にダンスを名乗るための煙が立つ会」(2024年5月、新馬場 六行会ホール)に参加して『ニュー・ダンス・テクノロジーズ』(当時は「ニューダンス」の間に中黒を入れて「ニュー・ダンス」と表記されていた)を公開プレゼンテーションしたことで知っていた。いま詳細抜きでこのときの初体験をまとめれば、トップバッターを務めたニュー・ダンス研究会の松本奈々子を唯一の例外(同研究会の桜井は、本会でダンスを踊ることを「逆張り」と表現していた)に、6組のプレゼンから受けた印象は、ダンスの枠内におけるダンスの解体/再構築(メタダンス)というよりも、各個の身体からどのようにして「ダンス」を抜いて白紙にするかというプログラムを演劇的に提示する印象があった。果敢な挑戦は評価に値するものの、結果的にどのアイディアにも既視感があり、ある意味では平凡、山本卓卓ソロ×萩原雄太の演劇的な『善善善意』をのぞけば、現代音楽や現代舞踊のなかに思いつきのレベルではないすぐれた先行例をいくらでも指摘することができるものだった。ここにあの「前衛の死」という言葉を思い浮かべずにはいられない。ダンスの文脈でいうなら、コンテンポラリーダンスに寄りかかることはあっても、その外側に出る方法をどの組も提示できていなかったということになるだろう。

 このときのプレゼンでは、ネタバラシ的な詳細について語られることはなかったのだが、メンバーの桜井圭介が共感を寄せている一群のダンサーを知っていれば、それが神村恵の「無駄な時間の記録」や福留麻里の「まとまらない身体」などと同じ水脈にあるテクニカルな「ダンス解剖学」であることは容易に理解することができる。そもそもがDaBYのスタジオを使って開催される一連のレジデンス・ショーイング、ワークショップ・ショーイング、ワーク・イン・プログレス公演は、創作過程に注目してダンスを開くという基本的な活動方針もあってか、総じてメタレベルに立つダンスがデモンストレーションされることが多い。それが神村恵や福留麻里の仕事に近い作業であることは指摘しておくべきだろう。むしろメタレベルに立とうとするダンスも(多様とはいえないまでも)一様でなく、その差異において出来事をみていく丁寧さが求められる。ニューダンス研究会の方法は、桜井圭介が入れこんでいるK-POPシーンからアイドル化している5人組の女性グループNewJeansをとりあげ、そのダンス映像(振付家: キム・ウンジュ、BLACK.Q)からサンプリングした身ぶり──「現段階では「ニューダンス・テクノロジーズ」におよそ1000個くらいの「動き」がアーカイブされると予想している」──をベーシックなダンス語彙としてファイル化、それらの身ぶりをパレットにして別のダンサーが別のダンスを描き出してみる試みである。神村恵や福留麻里が日常性のなかから拾ってくる動きは、彼女たち自身によって「振付」と呼ばれ、その中心に置かれるのは日常生活を無視することのない、しかしダンスとしてじゅうぶんに抽象化されたレベルを持つための振付を、より多彩なものにするための概念の拡大といえるだろう。一方のニューダンス研究会は、現在のところ、私たちの日常にはないK-POPという(祝祭的)娯楽空間を中継してダンスを再構築するため、ダンサーの持っているオリジナルな身体性が足切りにあう可能性が高い。基本にあるサンプリングという技術そのものが、深度のある動きと身体の関係性を環境ともども切り離すものとして(ポップに)働くからだ。ダンサーは身体の記号化に相対して(ときには闘争的に)踊ることになる。

 今回のショーイングには特別ゲストに捩子ぴじんが参加、チーム・チープロの松本奈々子とは、方法は同じでも質感は相当に異なるダンスで対照性をみせるふたつのソロと即興的に踊られるデュオがプログラムされた。(1)映像から採取された特徴のある26個の動きを機械的に並べる。(2)サンプリングされた動きを語法とするダンスを踊る。タイプの違う2曲が流れ、最初は決められた語法を外すことなく厳密に、次には語法を外してもよいやや余裕のあるダンスが踊られる。ここまでを最初に捩子ぴじんが、次に松本奈々子がさらったあと、(3)映像による元ネタの上映(サンプリング部分の映像の切り出しとスローモーション映像を連続上映)。(4)デュオによる自由なセッション(シンプルなユニゾンの動きがサンプルのなかから採用されていた)。捩子ぴじんはここで初めて床を使った(元映像がK-POPのものだったからだろう、サンプリングされた動きのパレットには床を使ったものがなかった)り、スキップして会場を走りまわるなど、決められたルールからの逸脱を匂わせるダンスを踊ったが、相方の松本は、共演者のダンスを意識の片隅に置きつつ、パフォーマンス・エリアを分けあいながら、即興とはいっても決められた語法のさらにルーズな使用で踊っているようであった。今回のショーイング公演では、松本による初演のソロから踊り手が2人になりネタバラシを加味することで、単に方法論を提示するだけでなく、同じ方法を使っても踊り手によってまったく違う結果になることが如実にうかがえて、ダンス的興味を掻き立てることになっていた。たとえていうなら、捩子ぴじんが動きの語法を漢字的に踊って身体の形を連結していたのに対し、松本の踊りはひらがな的な踊りで、身体を部分的に動かす場合でも全体的に流れるように踊られていたのが印象的だった。ニューダンス研究会がこれからも共演ダンサーを増やしていく計画を持っているのは、やはりこうした身体の相違がダンスの相違にあらわれることの面白さが十分に感じられているためと思われる。

(北里義之)

2025年5月12日月曜日

巨人をキャッチする──川口隆夫「大野一雄について」新バージョン試演会

 


川口隆夫

大野一雄について

新バージョンに向けて

東京赤坂 ゲーテ・インスティトゥート東京



本年[2025年]6月オランダフェスティバル[6月12日&13日、Frascati劇場]での上演を予定する川口隆夫「大野一雄について」を新バージョンにむけて更新し、試演する会です。新バージョンでは、大野一雄が晩年に座ったまま手で踊ったシーンを加えて再構成します。大野一雄が2000年以降自ら立てなくなり手だけで踊った晩年の踊りは、日本では多くのメディアで取りあげられましたが、海外で上演されたことはなく、川口隆夫の試みによって初めて欧州の観客の目に触れることになります。また、2013年初演以来、大野一雄の動きを「コピーする」というコンセプトで再演を続けてきた「大野一雄について」の新たな展開を目指す挑戦でもあります。


公演プログラムより



コンセプト・出演: 川口隆夫

日時:2025年5月11日

開場: 14:30、開演: 15:00

会場: ゲーテ・インスティトゥート東京

(東京都港区7-5-56)

料金前売: ¥3,000、当日: ¥4,000

U25前売: ¥2,000


振付: 大野一雄、土方 巽

ドラマトゥルク・映像・サウンド: 飯名尚人

照明: 溝端俊夫、宇野敦子

裏人: 津田犬太郎

衣装: 北村教子

ダンス解析・指導: 平田友子

記録ビデオ撮影: 飯名尚人、遠藤有紗、内野佑海

記録写真: 片岡陽太

受付: 樫村千佳、溝端美奈

主催: NPO法人 ダンスアーカイヴ機構

協力: ゲーテ・インスティトゥート東京、大野一雄舞踏研究所





 2013年の初演から12年間、国内外を問わずさまざまに環境の異なる会場で再演を重ねてきた川口隆夫のコメンタール・パフォーマンス「大野一雄について」は、生前の活動において、ダンスと呼ぶにはあまりに埒を外れている、かけ離れた存在であった稀代の踊り手──巨大過ぎて常識的な思考のサイズに収まらない存在について、後進のわたしたちに、あの「彼方からやってくる」もののようにして考えられないことを考えるように強いる貴重な機会をもたらしてきた。「舞踏」というのは、結局のところ、彼のために、彼ひとりをジャンル化するために作られた言葉ではないかと思えるほどだ。むしろ大野一雄について考えるとき舞踏は消える。それはつまりかれがそれだからだ。そこに多くの舞踏家たちと大野一雄をわける「創始者」のラインが引かれている。土方巽の振付や演出には、反近代的な批評精神を軸とする方法があり、模倣可能な普遍性を持つものとして全世界に伝播していったが、大野一雄の後継者と呼べるようなダンサーは皆無である。そこには歴史的な出来事としての一回性があり、日本独自の風土に根ざしたダンス様式というのではなく、またダンスにおける前衛芸術の先駆的あらわれというのでもなく、ましてやこれが舞踏の原点というようなものではさらさらない。端的にいうなら、反復不能な出来事の瞬間をわたしたちの(あるいは世界の)舞踊史が持ったということなのだ。毎回ただ一度かぎりの身体表現であるダンスには、たしかにその場にいなくてはわからないことも多いのだが、その誕生から半世紀を過ぎ、<一人一流派>という大野原理とでもいうようなものに導かれ、いまや多義的な意味を帯びるようになった「舞踏」には、そのような位相が確実に存在している。「大野一雄について」を見るたびに観客が強いられるのは、まさにそのような性格の思考だといえるだろう。

 川口隆夫が大野一雄のダンスにアプローチするために選択した初演記録映像からの「完全コピー」という方法も謎めいている。再現不能の即興ダンスによる振付を、ダンスを収録したビデオ映像を舞踊譜に見立てて完全コピーするという方法は、振付概念の拡張をともなって一般的におこなわれているようだ。大野一雄のダンスにおける即興性もまた、ビデオ鑑賞されるだけではなく、そのようにして生身の身体によって再現可能なものとなる。伝統的な振付スタイルから外れるようなメディア論の介在は、身体の虚構性を熟知している川口隆夫らしいともいえるだろう。クリエーションスタッフとして「大野一雄について」シリーズに参加しているトコ先生こと平田友子は、ムーヴメント解析とリハーサルサポートを担当、時間経過に従ってあらわれてくる動きを、その動きの内容に斟酌することなく即物的に対応させていってダンスの設計図を制作、映画の絵コンテを思わせる「完全コピー」実現の重要な役割を担っている。映像のなかの大野一雄がなにを踊ろうとしたのか、即興なのか振付なのか、モダンダンスなのか舞踏なのかというような解釈や意味から遠ざかり、そこにあらわれてくる動きそのものに視線のすべてを注力する態度は、「大野一雄について」から意味を消し去る行為にも見えるが、実際にそれができるかというとけっしてそうはならない。観客がパフォーマンスになにを感じるかということとは別に、川口隆夫のパフォーマンスは、少なくとも2つの意味を生んでいる。

 (1)平田友子のオリジナル作品もまた厳格な動きの形式こそがダンス的な意味を生むという発想のもと、バレエの様式美を体現する身体性によって踊られていくことに注目したい。生命賛歌のような演出がなされるとはいえ、ダンスの意味は身体の形そのものから発生してくるという発想は、彼女が担当する「大野一雄について」の「完全コピー」にも通じており、それは実際には機械的な写しなどではなく、ひとつのヴィジョンに支えられたダンス作品になっているということ。このことはさらに、よく知られた大野一雄の稽古の言葉──「思いがかたちを導く」「魂が先行して肉体がついていく」──において、「かたち」や「肉体」を捨てて「思い」「魂」という内容に一元化されたヴィジョンを連想させ、形式と内容を対立するものとして扱わない点で、真逆の方向からではあるが、平田と同様のことをいうことになっている。こうした発想こそ、後に舞踏の稽古が身体存在の探究へとフォーカスされていくことにつながる当のものではないだろうか。

 (2)もうひとつは、動きの内容を解釈することなく、ひとつひとつの動きを細かく時間軸に沿って即物的にならべていく「完全コピー」が、わたしたちが見るのは大野一雄なのか川口隆夫なのかという問いを発生させること、さらにはダンサーを見るとは、ダンスを見るとはいったいなにを見ることを指していっているのかという問いをもたらすことである。これを「視線の問い」と呼ぶことができるだろう。この問いはすべての「大野一雄について」を通してつねに問いのままでありつづけ、解答欄が空欄のままであることによって、観客はダンスを見るということがその人にとって何を意味するのかを、結果的に自身で定義することになる。この意味では、「大野一雄について」は、観客の視線を本人に投げ返す鏡のようなものとなっている。

 「大野一雄について」バージョン2の構成は、例によって最初に(1)長い屋外パフォーマンスとなる序章部分で、ゴミを全身にまとって本公演へと突入する「O氏の肖像」(今回の公演では、本公演との間をつなぐバッハの「トッカータとフーガ」は演奏されなかった)が置かれた。本公演は『ラ・アルヘンチーナ頌』(1977年)から、(2)パンツ一丁になっての歩行「死と誕生」、(3)時折足を踏み鳴らしてはトボトボと歩き、両手を床については倒れこみ、キリスト磔刑を思わせる十字型に両手を伸ばして踊られる「日常の糧」(キリスト教において信仰を証する日々の務めを意味する言葉)、(4)左手を外に伸ばし、左ひざを内股になるように屈しては天井を見上げるポーズを保って静止する「天と地の結婚」と続く。ここで暗転があり、ステージ前に化粧道具を持ち出した川口が、観客の目の前で自らの顔を変容させる化粧の場面がある。再び本編に戻ってからは、ダンスらしいダンスを踊る場面へと移行、会場の雰囲気をガラッと変える(5)「タンゴ 花」と(6)「タンゴ 鳥」が踊られる。くりかえされるステップとターン。記録映像に残された万雷の拍手にこたえる大野のしぐさまでがトレースされる。ここから作品は『わたしのお母さん』(1981年)へと移行、初演バージョンで踊られた(7)「ショパン」の表情豊かな手の動きが印象的なダンスが踊られた後、再び化粧道具を携えて先ほどほどこした化粧を落とす場面がある。最後は(8)素顔になって感情豊かに踊られるふたたびのダンスらしいダンス「愛の夢」によって本編が締めくくられた。(9)この後にバージョン2の真骨頂というべき織部賞授賞式でのダンス二景が、大津幸四郎監督(故人)のドキュメンタリー作品『大野一雄 ひとりごとのように』(2007年)から採取された。ひとつは立膝になった大野慶人に腰を支えられての立位の踊りで、もうひとつは椅子に座って踊る座位の踊りだが、座位の踊りはさらに床に転げ落ち、脱いだ靴を両手にはめて床上の踊りへと展開していく。「初めて欧州の観客の目に触れる大野一雄の晩年の踊り」をプログラムした部分に相当する。

 バージョン2の目玉になっている最後の演目「織部賞授賞式」は、「大野一雄について」において、それまでの演目とスムーズにつながらない断層を描き出していた。大野一雄の踊りを撮影した映像を舞踏譜に見立て、ここでも一貫して「完全コピー」の方法が踏襲されたのだとしたら、おそらくこの異質感は、元になった映像が大津幸四郎監督のドキュメンタリー作品から採取されたものであることに原因があると想像される。性格的に記録映像という点では似通っているものの、『ひとりごとのように』は、ドキュメントとはいえ主観的たらざるを得ない監督の視線が構成した物語性を帯びている。「完全コピー」はそうした監督の視線をもコピーしているのだ。バージョン2においても、大野舞踊の真髄は『ラ・アルヘンチーナ頌』『わたしのお母さん』で踊られたパフォーマンス群にあることに変わりはない。しかしながら「大野一雄について」に「織部賞授賞式」の最終章が加えられた効果は覿面で、バージョン2は、100歳を越え、歩行不能になっても踊ることをやめないダンサー魂というか、執念のようなものを通して希代の舞踊家の一生を描き出そうとするものに変わっていた。「完全コピー」という謎めいた方法によって観客に与えられていた空欄が、「大野一雄一代記」のようなもので埋められたのである。これと引き換えに、大野一雄について考察する新しい側面も浮上していた。それは無為のパフォーマンスが延々とつづく冒頭の「O氏の肖像」との呼応によって、振付家の指示を待つことなく踊り出してしまう大野舞踊のアナーキーな性格が、晩年の「織部賞授賞式」にも一貫して炙り出されていたことによる。アナーキーとはすなわち<統治されざるもの>(カトリーヌ・マラブー)のことだ。振付家のいないダンス、絶えざる振付家との闘争のなかにあるダンスという大野一雄のアナーキーな性格は、ひとりのキリスト者でもあった彼の敬虔さとの間でいちじるしい齟齬をみせているが、後代の舞踏家たちにとっては大きな指針となったであろうことが想像される。再言すれば、川口隆夫の「大野一雄について」は、ダンス界が生んだ希代の舞踊家について、その多面的な性格の矛盾したありようについて、考えられないことを考える機会を提供してくれる。「大野一雄について」を通過するという体験は、ひとり大野一雄のみならず、私たちにダンスそのものを深く理解させることにもつながっていくだろう。

(北里義之)



大津幸四郎監督

『大野一雄 ひとりごとのように』

(2007年)

2025年5月9日金曜日

【書籍・定期刊行物】『テルプシコール通信 No.205』

 


書籍・定期刊行物

テルプシコール通信 No.205

2025年5月1日号

発行:テルプシコール編集室

編集: 宜子


Terpsichore 5月-7月 Schedule

エンギシャ抒情詩劇

失楽園

第一部「ゲットー」

(作・演出:金星辰)


南 阿豆 ソロ公演

「そこに生きる記憶の遺跡」シリーズ第一弾

空の電球


ごっとさん。第11回公演

rayonThe Little Princeより

(構成・演出: 浦浜綾ユ)


ボタタナエラー

ふぁいやホーム 淑

(作・演出: 村田与志行)


17番劇場

Nu-e(ぬえ)

テキスト: ヨハン・アウグス・ストリンドベリ『一人舞台』より

(台本・演出: 川口一史)


杉田丈作

2025年 非舞踏会vol.7

ボクテナニ  オドリツテナニ

ピーカンノ  カイセイデアル

エイケツノアサ


若尾伊佐子

無音即興ソロダンス

もう一度、踊ろう、か。


4人(5人)のダンサーによる即興公演

異形(イケイ)の街に星がふるvol.1

出演: 古茂田梨乃、杉田丈作、

藤井マリ、森 雅也 (?)


ダンス演劇ワークショップ

鯨井謙太&大倉摩矢子

ユリイカ!! ワークショップ

(毎月開催)


【舞踏新人シリーズ 第49弾

郷坪聖史萬古開闢

玲鳳ヒ 私だけの緋色

喫茶みつる蜥蜴に日陰わたしの断面図

あみホワイトホール#あみ神楽#


【公演評】

北里義之

オイリュトミーから土方巽のほうへ

──鯨井謙太 舞踏計画 剥製の光へvol.1UBUSUNA 異聞


【連載】

國吉和子

G氏を探して1950年代篇(『禁色直前)


【現代舞踊批評家協会】

第55回(2024年)舞踊批評家協会賞


【新刊本】

猪崎弥生 編

舞踊年間2024

(2025年2月、一般社団法人 現代舞踊協会)


【新譜CD】

広瀬淳二

SSI-7(2020年)

DUO-1(2022年)

Be Quiet!!!(2023年)

Go Home and Go to Bed!!!(2024年)


【漫画】

LUNACY

「るなしい人々」


奥付 ■


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