2013年3月9日土曜日

岩名雅記の映像





映画は再現可能な缶詰(モノ)であり、舞踏はナマモノ(ライブ)ですから全く違うものです。それでも舞踏に可能な「身体性」を映画でも実現できないかと考えたのが映画作りの出発でした。
(岩名雅記インタビュー「乱れ打ち かわら版」2013年春、35号) 

「ヒカリもそう、イロやオトもその仲間。」「ヒトがミズやヒカリやイロやオトのような ‘モノ’ になれば、先ず私達のカラダが変ります。カラダがモノに変れば、歩けないことも話せないことも聴こえないこともなくなります。」
(『朱霊たち』シナリオ、シーン76「マリアの声」) 


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 引用文の後者は、ポリフィリン症という難病にかかり、太陽光を避けるために日中の外出がはばかられる病者たちが、燦々と陽のふりそそぐ海辺に集って癒される幻想の場面で、マリアが狂言回しの少年にいう台詞である。光や色や音は、モノではなくてコトではないか、少なくともモノが運動する姿だろうと思うのであるが、ここでマリアがいわんとしていることはなんとなく想像できる。ヒトを正常/異常、健常者/障害者のような社会的な制度によって身体化するのではなく、光や色や音のように、細胞レベルでやりとりされる粒子のようなものの集合体として身体化するなら、そこには私たちが想像したこともないようなカラダが出現するはずだといっているのである。これを映画監督・岩名雅記の身体論=舞踏論と呼んでもかまわないだろう。マリアの口を借りていわれるこの身体論=舞踏論は、そのまま映画論でもある。すなわち、『朱霊たち』(2007年)、『夏の家族』(2010年)、『うらぎりひめ』(2012年)といった作品に定着される映像の数々は、物語を持った個別の作品枠を超えて響きあい、岩名雅記その人が暮らした/暮らしている日本とフランスというふたつの離れた土地を、あるいは彼の生まれた戦後空間と3.11後の現在という分断された世界を、自由に往還する「ミズやヒカリやイロやオトのようなモノ」としてのイメージ(それを「幻想的」というべきだろうか。そもそも幻想的でないイメージなど存在するのだろうか)によって、あるいは私たちが見ることのできる光そのものとして形象化したものである。

 岩名雅記がもしも「身体の映画作家」だとしたなら、それは映画が舞踏家の作品であるからではなく、映画に舞踏家が登場するからでもなく、舞踏映像が作品中にモンタージュされているからでもない。そうではなく、暗闇のなかで映像を存在せしめる光が、身体的なもの、触覚的なものとして理解され、感覚され、定着されているからである。明大前キッド・アイラック・アート・ホールを会場にした全作品の上映会では、『夏の家族』上映に先立って舞踏家・岩名雅記のダンスが披露された。38日(金)の公演では、ダンサーは神主みたいな小豆色の長い装束を身にまとい、眉間にTの字型の白い紙を貼りつけ、右手に持った御幣をひらひらとさせながら静かな舞いを舞った。つま先立ちする姿勢は、その不安定さによって観客の感覚を触発し、ダンスのなかに巻きこみながら、ポワントするバレエの妖精さながらに、いまここの時空間からほんの少しだけ(足首のぶんだけ)浮きあがり、気づくべき人が気づけばいいという慎ましさで、虚構空間を立ちあげようとする。これは身体によるリアリズムの行使ではなく一種のイデアリズム──あるヴィジョンの提示というべきものではないだろうか。即興的に踊られるダンスは、音楽がなかったからではなく、身体の動きそのものが静かなサウンドを発していたのだが、おそらくはそれが日本的な「舞い」を、あるいは水平方向への移動という点では東洋的な身体性を感じさせるのだと思う。

 岩名雅記の身体の(あるいはダンスの)静かなたたずまいは、彼の映画作品における映像の静かなたたずまいに通じているようだ。触覚によって再編成される視覚体験、あるいは映像体験というのは、現代芸術のテーマのひとつにもなっているので、この静かさについて、少しだけこだわってみることにしよう。特に処女作の『朱霊たち』において、さくさくとした物語の流れを間延びさせるようにはさみこまれる、物語的関連を欠いた、ゆっくりとした身体の動きのカットは、映像の静かさを倍加する脱臼装置として働いている。もちろん舞踏映画を作ろうとして入れられたカットではない。せわしなく物語を追っている観客の意識に、幽閉され、死を待つ病者たちの静けさに気づかせるためのシーンなのである。これは物語の川床をなす静かさそのものの映像化といえるだろう。『夏の家族』においては、狂気と紙一重の(あるいはすでに狂気のなかにいるのかもしれない)日常を送る家族の静けさは、すでに舞踏的な場面を必要としていない。この作品にそれがあるのは、物語の舞台設定になっているからでしかない。さらに新作の『うらぎりひめ』になると、舞踏的なシーンはいっさい登場しなくなり、かわりに「非国民」として幽閉された顔を持たない「女」(カメラが顔を映さない)の、台詞のない描写が徹底されるようになる。それ自体を舞踏的ということもできるだろうが、その中心を走っているのは、「女」の手のひらに押された焼きごての痕跡を、セックスを強要されるたびに、「女」自身が「命」の字型になめる痛みの感触である。この焼きごての痕跡が持つ装置性は、処女作の『朱霊たち』で、「呪い」と「祈り」を、ともに「与えられたイノチを与え返す為の明白な装置」と定義するところに直結していくものだろう。そう、真の物語は、まったく別の形をとりながら、何度でも作品に回帰してくるのである。

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