2013年3月22日金曜日

【CD】山内 桂+中村としまる: 浴湯人



山内 桂 中村としまる
Katsura Yamauchi/Toshimaru Nakamura
『浴湯人 Yokutojin
Ftarri|ftarri-994|CD
曲目: 1. (30:21)
演奏: 山内 桂(alto saxophone)
中村としまる(no-input mixing board)
録音: 2012年4月7日
場所: 大分県別府「プラットホーム01」でのライヴ録音
アートワーク: 杉本 拓
デザイン: 杉本 拓、八木菜々子
発売: 2012年12月9日



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 南仏に住むミシェル・ドネダが、ソプラノ・サックスを片手に、ひとり自宅の裏山を散策し、文字通り、自然と語らうなかからつかみだしてきた気息の演奏のひそみに倣うようにして、サルモサックスこと山内桂は、自然のなかで川釣りを楽しむ環境に故郷の原風景を見いだし、まるでサケが急流をさかのぼっていくような、静かで強靭なサックスのラインを独自に編み出すとともに、彼自身の即興演奏を、フレージングによる対話から音響をインスタレーションするようなスタイルへと移行させた。音響的なアプローチを一過性のブームとするのではなく、いわば自身の背中に刺青するようにして背負い、共演者が誰であれ、頑固なまでにその方法論とスタイルを貫くことで、孤高の歩みをたどることになった。これは音楽である以上に思想というべきものであろう。おなじサックス奏者である広瀬淳二の音響アプローチが、凝縮され、白熱化した瞬間的なサウンドのありようを生命とするのとは対照的に、静かに息づくバイオリズムのなかのホバーリングをめざす山内の演奏は、本質的には、生態系のなかに置くことのできるようなクールな音楽になっている。山内の地域主義は、大分県別府での共演にちなんだ「浴湯人」という本盤のタイトルにも、さりげなく示されているだろう。

 本盤の共演者である中村としまるは、周知のように、数多いるエレクトロニクス奏者のひとりというにとどまらず、サイン波の Sachiko M ともども、20世紀末に音響的試行からサウンド・インプロヴィゼーションへと向かった「即興演奏のパラダイムシフト」において、国際的なインパクトを与えることになった演奏者である。中村の演奏に対する海外の高い評価を、日本にいて想像することはむずかしいかもしれないが、彼も Sachiko M も、ヨーロッパでは音響的アポリア(問題)の中心において論じられている。外部入力を使わないという意味の「ノーインプット・ミキシングボード」の電子回路を構築する際、中村は演奏に習熟してしまうことで、電子回路が容易にコントロール可能になってしまわないよう、演奏のたびに、新たな要素を加えるなどの工夫をしているという。電子回路の他者性を確保することで、サウンドの他者性を担保し、あわせて予想のつかない出来事の到来に演奏を開くという態度の徹底が目指されているのであろう。本盤に収録された、水しぶきをあげて滝壺にたたきつけられる大量の水のようなホワイトノイズの奔流が、はたしてこうした予測不能性が生んだものかどうか詳らかにはしないが、泰然自若として静態的な山内の演奏を、大きく破るものだったことはたしかである。

 デュオの演奏は、二部構成のライヴの第二部を収録したものとなっている。山内の静かな気息の演奏(楽器が鳴らないようにしながら、サックス管に吹きこまれる息を強調する特殊奏法)からスタートし、後発した中村の電子音との間で干渉波を生みながら、高次倍音を生むサックスの単線ラインを経由し、やがてすべてを押し流すホワイトノイズの奔流がふたりを襲う場面へといたる。マイクで音量増幅された山内のサルモサックスは、まさしく激流をさかのぼるサケのように、全身をふりしぼってきりもみ状態になりながら、音響アプローチの看板をかなぐり捨て、エヴァン・パーカーや阿部薫を連想させるハイテンション・サウンドにまで、一気にサックス演奏の記憶を遡行していく。その後、演奏は凪の状態に入り、山内の静態的な演奏に寄り添う形でサウンドの交換がされていく。高次倍音を火花のように飛び散らせながら、金属を溶接するようなリズムで演奏されるエレクトロニクスノイズが印象的だ。演奏の後半、再びホワイトノイズの奔流による第二ラウンドがスタートするのだが、ふたりはふたりともに第一ラウンドと同じことをしようとはしない。緊迫感あふれる30分のデュオ・インプロヴィゼーションが、まるで途切れたように終わる最後の瞬間まで、聴き手の耳は釘づけになることだろう。

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