2013年3月11日月曜日

野村あゆみ: Oublier



Oublier
日時: 2013年3月10日(日)
会場: 東京/谷中「HIGURE」
(東京都荒川区西日暮里3-17-15)
開場: 4:00p.m.、開演: 4:30p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 野村あゆみ(dance)
中村秀則(12string guitar) 高原朝彦(tenor recorder)
美術: 高原朝彦
照明: 瀧田尚子



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 展示会のないときに、一階と二階をパフォーマンスに貸し出している谷中の画廊「HIGURE」の階上は、大きく開かれた窓の外が、手すりのない木造のベランダになっていることもあり、眼前には南泉寺の境内を、また彼方には西日暮里駅周辺のビル群を展望する見晴らしのよさで、開放感にあふれたスペースとなっている。先ごろ、打楽器のノブナガケンと10弦ギターの高原朝彦で開催された「続 連歌」は、こうした環境の特殊性を生かした即興演奏のライヴだったが、今回、おなじ会場を使用した野村あゆみのダンス公演「Oublier」(ウブリエ。フランス語で「忘却する」という意味)も、「続 連歌」同様、日没時の時間帯を選ぶなどして、やはり環境をパフォーマンスの重要な要素にするイベントだった。高原とは古くからの音楽仲間である12弦ギターの中村秀則が演奏者に選ばれ、照明は瀧田尚子が担当した。第二部の後半に、テナーリコーダーで少しだけ参加したものの、本公演でもっぱら美術などの裏方を務めた高原は、ダンサーの希望を聞いて、会場に前後半それぞれ別のシンプルな飾りつけをほどこし(このため観客は、休憩時間に一階に降りて待機し、第二部の仕込みができてから再入場した)、野村あゆみは、シンプルなこの舞台装置を第二の環境としてパフォーマンスした。音楽的にいうなら、ダンスそのものが即興的におこなわれる一方、美術はコンポジションの役割を果たしたということになるだろう。

 あまり積極的に公演を打たない野村にとって、この「Oublier」は、2年5ヶ月前に駒込のラグロットで開かれた「rest」以来の本格的なダンス公演となる。風がときおり強く吹き、黄砂なのか煙霧なのか、空が翳るほどに大量の粉塵を巻きあげて人々を悩ませたものの、幸いなことに雨にはならず、必要とされた外光はじゅうぶんに得られた。第一部の冒頭、窓のブラインドがあがると、外のベランダ椅子には、赤いドレスを着て、首にオレンジ色の布をかけた野村が腰かけている。思い切った演出だ。中村は客入れのときから(水琴窟を思わせる)サウンドを出しはじめており、ブラインドがあがるのを合図に、シャリシャリと弦をなでるような彼ならではのギター演奏へと移行していく。薄手の布を風になびかせながらいくつかの身ぶりをしたあと、野村はサッシ扉を勢いよく開け放って室内に入ってくる。首にかけた布をさばきながらダンスし、サッシ扉の敷居という不安定な場所に乗り、床に膝をつける形でポーズをとり、暖色のスポットがほんのりあたるところまで客席側に踏み出し、窓ガラスに両手を押しあて、室内に張りめぐらされた緑や青の毛糸の密集地帯で身体をからませる。こうした身ぶり構成は、内的な身体の立ちあげというより、むしろ環境なりに身体を沿わせていくパフォーマンスとなっていた。事前にそれとは見えないものの、地面を水が流れていくことによって、でこぼこした地形が見えてくるといったような。

 30分で終了した第一部が、予定時間より短かかったのは、即興的なパフォーマンスの生理のようなもので、問題とすべきところはなにもないが、それが日没時間にかかわるとなれば、観客になにを見せたいかという演出のポイントを、ひとつはずすことになってしまう。第二部は日没直後の薄暮のなか、真っ青になった空とともにおこなわれた。ステージには天井から七枚のアルミホイールがすだれのように長々とつりさげられ、中央には第一部で野村が首にかけていた濃いオレンジ色の布(照明の光で赤色に見える)が垂れさがっている。赤い光が周囲のアルミ箔に反射して美しい。野村はステージ上手のコーナーで、観客を背にして立っているのだが、彼女もまた、アルミ箔でサナギのように包まれている。天井から暖色の照明がふりそそぐ前半部分に対し、テナーリコーダーを吹く高原が下手に入った後半部分は、床に置かれたライトが正面からダンサーを照らすというダイナミックな変化がつけられた。パフォーマンス冒頭、身体を包むアルミ箔をガサガサといわせてふり落とした野村は、すだれのように垂れさがるアルミホイールの林のなかを、見え隠れにパフォーマンスしていく。木と木の間から手や足が突き出たかと思うと、ステージ下手では、全身を見せてのダンスが踊られるという具合。ここまで床に寝るという形をとらなかった野村は、最後のクライマックスのなかで、アルミ箔を引き裂き、ステージ上に散乱させながら床に転がった。視界が開けた先の窓外には、真っ青な空。

 自然光と照明という光の対照性はもちろんのこと、舞台装置によっても変化がつけられた第一部と第二部ではあったが、第二部の野村のダンスもまた、第一部とおなじく、環境なりに身体を沿わせていくパフォーマンスだった。そこでなにもおこなわれなければ、なんの関係もない舞台装置のひとつひとつが、地面を流れていく水のような野村のパフォーマンスによって、ひとつらなりのでこぼこした地形として出現する。ダンスが美術になにを要求し、美術がダンスにどう応えたかということが、本番のパフォーマンスによって初めてあきらかになるという事情は、前述したように、音楽でいうなら作曲と演奏の関係にたとえられる。12弦ギターの中村秀則は、後半のセットをよりアグレッシヴな演奏で酬いていたが、これだけ道具立てがそろってしまうと、直接対決の即興セッションにはなりようがないと思われた。即興演奏もまた、演出のひとつとしておこなわれたというべきだろう。木村由の「ひっそりかん」のように、身体そのものが発している声に耳を傾けるため、可能なかぎり演出を排除するという方法もある。「Oublier」でいうなら、公演の最後に、演奏がとまり、すべての道具立てが使いつくされて解体してしまったステージ空間で、なおも響いている身体の声を聞こうとするなら、おそらくはそこから、彼女自身のものというしかない、内的な身体の領域が立ちあがってくるのではないかと思われた。闇も光の一種とするなら、ほんとうに必要なのは見るための光だけなのだから。

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