2013年6月22日土曜日

木村 由: 夏至



夏至
木村 由|ちゃぶ台ダンスシリーズ2013
日時: 2013年6月21日(金)
会場: 東京/経堂「ギャラリー街路樹」
(東京都世田谷区経堂2-9-18)
開場: 7:30p.m.,開演: 8:00p.m.
料金: ¥800(飲物付)
出演: 木村 由(dance) 太田久進(music)
問合せ: TEL.03-3303-7256(木村)



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 梅雨の季節、一年のうちもっとも昼の長い一日を選んで、木村由のちゃぶ台ダンス「夏至」の公演がおこなわれる。木村の地元である経堂の「ギャラリー街路樹」を会場に選び、2008年から足かけ6年、「夏至」「冬至」と名づけられたふたつのちゃぶ台ダンスが定期公演されてきた。暦にちなんでつけられた公演タイトルは、逆説的に、それと明言されずにおこなわれるタイトルの拒否と受け取ることもできるだろう。音楽も装置もない、自然光だけをテーマにした無音独舞公演「ひっそりかん」とくらべるとあきらかなように、「夏至」「冬至」に見られるちゃぶ台ダンスの特色は、積極的に記憶の問題を取り扱おうとしている点にあると思われる。もちろん記憶といっても、ダンス以外に、なにがしかの物語が語られるわけではなく、身ぶりが特定のプロットを構成するわけでもない。ちゃぶ台ダンスにおける記憶は、ちゃぶ台そのものが雄弁に語るようなこととしてある。すなわち、衣装であるとか小道具であるとか、ダンサーが舞台で触れることになる物によって感覚的に与えられるのである。逆にいうなら、古びた道具のあれこれがもっている(はずの)記憶を賦活するような魔術的な行為が、ダンスとしておこなわれるといってもいい。あれこれの古びた道具に、また観客に、なにごとかを思い出させること。

 今年の「夏至」も、例年通り、アップライトピアノのある街路樹の奥まった空間を使い、コンクリートの床に低い衝立てを置いて、その前に日に焼けた茣蓙を敷き、そのうえにちゃぶ台を乗せるという簡素なステージが作られていた。ライトは上手の天井に固定され、ダンサーがちゃぶ台のうえに乗ると、動きの具合で壁に大きな影ができる。衣装は、ひじのあたりまで腕まくりした白い長袖シャツに紺のスカート、古くなって破れ目のできた無地の白エプロンにホワイトソックスというモノクロームなものだったが、これは学生時代に立ち食い寿司屋でアルバイトしていた時代のものとのこと。木村にとって、ちゃぶ台とは別の時代の記憶を運ぶものである。いつものように観客席から静かに登場した木村は、奥の壁に点灯している洋風ライトを消し、首に巻いたヨレヨレの手拭いを衝立てにかけると、しばしちゃぶ台の前にたたずんだ。空間を開く儀式のようにも見えるが、それ以上に、背景に退いている道具に触れることで、出来事を見ている観客に、そのものの存在を気づかせる行為といえるだろう。おなじようにして、ダンスの後半に登場する下手側の壁に視線が “触れる行為も、ものに対する観客の感応力を賦活する身ぶりのひとつといえる。

 音響の太田久進は、ちゃぶ台ダンスのテーマというべき、客入れ時に流されるドリーミーな電子音をはじめ、ダンスの流れと意図的なずれを作ったり、これから起こることの気配を感じさせたりする演奏で、公演を立体的に体験させる重要な役割をつとめている。使われるサウンドは、音楽的な意味に汚れていない物音やホワイトノイズが中心となり、ダンスの流れにコメントはしても断ち切ることはしない音響モンタージュによって、木村が積極的に展開している他の即興セッションにはない、ちゃぶ台ダンス独自のスタイルを作りあげている。そのなかでもっとも注目されるのは、木村のパフォーマンスのなかで過去の記憶と現在時が触れあい、ときに混線を引き起こして、錯乱にまでいたるような時間の宙づり状態を作り出すことだろう。あれこれの物語ではなく、ものに触れるというダイレクトな感覚からやってくる即物的記憶に相当するサウンドの創造である。この日の「夏至」では、木村が音の展開を待って聴いてしまう場面が見られた。このようなダンスと音の水平的な関係は、デュオの即興セッションでは問題にならなくても、(垂直方向に展開される)ちゃぶ台ダンスの潜在的可能性とは別のもののように思われる。ちょっとした鍵のまわし方で、これまで開かなかった箱が開くような、あるかなしかの領域に触れられるかどうかが、パフォーマンスの成否をわけるのではないだろうか。

 少しまえ、木村由のダンスにおいては、<二階にあがる>ような動きが、彼女のダンスの全般にわたって重要なモチーフを形成している点を指摘し、ちゃぶ台ダンスとも結びつけながら、それを「ステージの床のような「ここ」とは別の(「あそこ」ではない)位相に身を移したことを意味する身ぶりのこと」と定義したことがある。記憶と深くかかわるちゃぶ台の存在は、いわば宙づりになった陰の領域とでも呼べるようなものをステージ上に出現させ、この世(ちゃぶ台の外)との間に時間的・空間的なずれを作り出して、木村のダンスを亡霊化する感覚装置なのだと断言していいだろう。ダンスの可能性ということも含め、そこは(木村の身体を通して)危機的なものが露出してくる現場である。危機的なもの、危険なもの、過激なもの、そのような感覚によってつかまえられるものの出現には、ちゃぶ台のうえにあってもグラデーションがあるようで、木村の身体がそこでとるいくつかの基本姿勢──すなわち、立つ、座る、寝転ぶ(横向き、仰向き、うつ伏せ)、指や足先や髪など身体の尖端部分と床を接触させる、ちゃぶ台の下の暗がりをのぞきこむ、の順で濃度を増していくように感じられる。それはちょうど、ちゃぶ台の下の暗がりに、境界領域が(猫のように?)うずくまっているかのような印象を与える。





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