2011年11月7日月曜日

伊東篤宏個展 2010


 ナディッフ恵比寿本店の地階にある穴蔵のような小さな展示スペースで、2010年の11月5日から12月5日まで、今年になって製作された伊東篤宏のコラージュ作品やペイント作品を集めた個展が開催された。90年代のエロ本やアジアの女性ヌードが印刷された雑誌のページに、インクを溶解する溶液を塗り、溶けてきたインクを使ってドローイングを描き加えるという手法で、見るものの触覚を強く刺激してくる作品群がならんだ。

 ピンナップ女性の裸体に、入れ墨をいれていくようにトライバルな文様を描き加え、頭にセミの頭部やヤギの頭部をのせたコラージュ・シリーズ、A4判雑誌に掲載された女性のハメ撮り写真のインクを溶かし、目といわず口といわず、すべての穴にタコの足(のようなもの)が突き刺さっているH・R・ギーガー的女体機械論のシリーズ、そしてアジアのピンナップ写真を溶かして彩色し、顔のうえに花をのせた楽園幻想のコラージュ作品を、背後から蛍光灯で照明したシリーズなどである。

 私たち鑑賞者の触覚を強く刺激してくる作品群の展示は、一部に蛍光灯が使われたことと深く関係しているようで、それがなんであれ、あるイメージをまなざすときの私たちの視覚を、感覚の起源まで遡行し、いまだ語られざる身体の闇の領域に訴えかけながら、意識化しようとする作業のように感じられた。インターネットによる影のない映像の氾濫や、みずからの身体を動かすことも官能させることもないままに、猛烈なスピードで消費されていく映像群がひきおこす現代人の身体とイメージの乖離は、各ジャンル別に細分化され、記号化による洗練の度合をたかめているポルノヴィデオの洪水をみるだけで、一目瞭然であろう。娯楽作品として作られているポルノヴィデオのようなセックスを、現実生活でしてはいけないという指南書まで登場するありさまなのである。

 そうしたデジタルな身体の変容が、私たちの感覚に大きな変化をもたらしつつある時代に、ピンナップ・ガールやハメ撮り写真のような古色蒼然としたイメージ群による触覚の再評価は、ある意味で反時代的なるものの提示──少なくとも、ある種のずらしの行為──であり、イメージをもういちど身体に結びなおす丹念な作業ということができるのではないだろうか。性的イマジネーションにおける北斎漫画的なタコと女性のコンビネーションは、戦闘的なフェミニストたちの批判を招くかもしれないが、現在ではさほどシュルレアリスティックなものではなく、むしろ凡庸なものだといえるだろう。あるいは伝統的な記憶によるものといえるだろう。伊東篤宏の作品に読みとられるべきは、そうしたイメージがどのように触覚的な変容をとげ、どんな記憶の重ね塗りがなされているかなのである。

 作家が言うところによれば、蛍光灯放電によるノイズ演奏というオプトロンのパフォーマンスは、実際に、蛍光灯を使ったドローイングの展示から、その表面を透過して見せている蛍光灯を、前面に取り出してみようというアイディアから生まれたものであるらしい。見るものの身体をダイレクトに立ちあがらせるため、みずからの身体を介在させる光のパフォーマンスが必要とされ、そのことを徹底する10年間、伊東篤宏はみずからに絵を描くのを禁じてきたという。

 今回の個展は、そうした禁欲が、ときのめぐりとともに、かえって不自然に感じられるようになってきたため、自分をもう一段、解き放とうとして開かれたものといえそうだが、これは単純な気持ちの推移からそうなったというより、伊東がみずからの身体的な変容を直感的に感じとってのイメージ解禁だということは、間違いのないところだろう。現在進行形で変わりつつある(らしい)身体や身体感覚を、自分ではっきりと視覚化するため、彼はもういちどドローイングという平面にかかわる手の作業を必要としているのである。こうした意識の変化は、その一方で、彼がいまおこなっている音楽演奏においても、もういちど大きな感覚の変容が起こりつつあることを、密かに照らしかえすものなのかもしれない。■



[初出:mixi 2010-12-06「伊東篤宏個展 2010」]