2011年11月6日日曜日

Andromeda、あるいは存在する女たち


Andromeda
柿崎麻莉子 & パール・アレキサンダー
日時: 2011年11月3日(木・祝日)
会場: 東京/田園調布「いずるば」
(東京都大田区本町田園調布38-8)
開場: 4:30p.m.、開演: 5:00p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500、学生: ¥1,500
出演: 柿崎麻莉子(dance)
パール・アレキサンダー(contrabass, direction)




私は、決して逃れることの出来ない、
自分よりも遥かに大きな<存在>を感じつづけていました





脚ならば脚のように、手ならば手のように、私の身体は自由なはずなのに、身動きひとつできない。耳ならば耳のように、声ならば声のように、私の響きは私を照らしだすはずなのに、なにも聞こえない、なにも歌えない、なにひとつ感じることができない。

逃れたいのかしら? こんな場所から。身体から。響きから。逃れようとすればするほど、私はもっと深い場所へと閉じこめられてしまう。まるでそれが罪であるかのように。罰であるかのように。

あなたに私を救いだすことなどできない。救いだすふりをすることができるだけ。私をあなたのものにすることなどできない。あなたのものにするふりができるだけ。お願い、私を逃がしてちょうだい! いいえ、決して逃がさないで! それでも、私が自由を選べるのは、あなたがいるからだということを私はよくわかっている。

皮膚ならば皮膚のように、指ならば指のように、私の身体は世界に触れたがっているのに、どこにも出て行くことができない。目ならば目のように、舌ならば舌のように、私はあなたを味わいたがっているのに、目は視線を放つことができず、舌は誰にも届くことがない。


♬♬



 ダンサーの柿崎麻莉子とコントラバス奏者のパール・アレキサンダーが新たに取り組んだのは、女の戦いの物語である。ギリシャ神話に登場するアンドロメダは、神々を凌駕する美を嫉妬され、荒ぶる海の怪物の生け贄に差し出されて、巌にいましめられているところを、偶然通りかかったペルセウスに助けられて妻になるという、男にとっては成人のための通過儀礼であり、女にとっては白馬の騎士を待つ婚姻譚であるような、人口に膾炙された(非対称の)物語のヒロインだ。黒い衣装を身にまとい、板張りの床のうえに寝かされたコントラバスの向こう側に、隠れるようにすわったアレキサンダーと対照的に、白い衣装──というより、舞台上手奥にある柱の高処に結いつけられたカーテンのように巨大な布──を身体に巻きつけた柿崎麻莉子は、膝から下だけを見せ、舞台中央に胎児のようなかっこうで横たわっている。彼女のふくらはぎには、縄目を思わせる茶色い筋が何本も走っていて痛々しい。

 パフォーマンスはアレキサンダーのヴォイスからはじまった。かすかな声は遠くからやってくるもののようであり、m音から母音へ、母音からs音を含んだやや複雑な発声へと移行していきながら、楽器の背中をこすって低いノイズを出す。その音に呼び覚まされるように、横になっていた柿崎の身体がもぞもぞと動き出す。動きに形はなく、巨大な布が顔や両手を巻きこんでいるので、まるでのたうちまわる芋虫のようだ。芋虫の動きは音のする方向にむかい、あるいはステージの対角線にむかいしながら、やがて両脚で立って、何度も厚手の布をふりほどこうとするのだが、そのたびに引き戻され、転倒をくりかえす。それでも布は少しずつほつれていき、やがて布の間から、すすきの穂のような秋の匂いのする髪型をした顔がのぞく。

 柿崎が動きはじめてから楽器を立て、弓で弦に触れるだけのノイズ演奏をしていたアレキサンダーがアルコ演奏に移行すると、場面が転換する。いったん上手に移動した柿崎は、何度か「うまくいかない」と言い、布のなかから片手を出して、手刀をきるように前方に差し出した。そのあとで、ふたたびステージの対角線にむかう脱出行があり、やがて両手が自由になり、片方の足が自由になっていく。それでも、最後まで左足首に巻きついた布は、ダンスの自由を奪い、思わぬところで柿崎を転倒させていた。両手両足が自由になった柿崎は、これまでの動きとは反対に、巨大な布が結いつけられている柱を布をたぐってよじ登り、何度となく落下しながら、これまで自分の自由を縛ってきたものに迫ろうとするが、やがて力尽きたのだろう、巨大な布をハンモックのシーツがわりに安眠するところで大団円を迎えた。

 パール・アレキサンダーの演奏は、ひとつのシーンを構成するサウンド環境を提供していた。柿崎麻莉子のダンスが、おそらく表現の位相ではなく、資質的に感情を誘発するものを持っているのと対照的に、コントラバスが奏でるサウンドは、ノイズであれメロディーであれ、じゅうぶんな抽象度を獲得しており、感情的な動きに相即して対話を試みるような “即興演奏” をしないことで、身体の動きに自由をもたらす場の役割を果たしていたように思う。私にとって、柿崎麻莉子のダンスの魅力は、その時々のコンテクストから切り離されて出現する細部の動きにある。かすかな嗚咽、顔をなでる仕草、対話する指のあそび、というようなアンドロメダの物語とは無関係の小さなダンスに、トレーニングすることのできない心臓の筋肉のような、感情の原形質があらわれているように感じるからだろう。

-------------------------------------------------------------------------------