2014年12月9日火曜日

新井陽子+おちょこ+木村 由「即興セッションやります!」@喫茶茶会記



新井陽子おちょこ木村 由
即興セッションやります!
日時: 2014年12月8日(月)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 新井陽子(piano)、おちょこ(voice)、木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 いまでは、即興演奏や即興ダンスを、前衛芸術の概念と結びつけ、音や身体の表現のなかに、これまで誰も踏みこんだことのない領域が存在することを、たとえ結果的にでも明らかにする非日常の行為と呼ぶことが、簡単にはできなくなってしまった。というのも、日常性に密着した場所で、日々の反復的な演奏や踊りを瞬間ごとに輝かせ、生き生きとさせる変化をそう呼ぶこともあれば、仲間とのコミュニケーションを厚くしたり、深めていったりするためのツールをそう呼ぶことも、ごく一般的におこなわれているからである。即興的な表現のなかで、くりかえし使うことで擦り切れ、凡庸化し、クリシェ化してしまった語法を、さらなる逸脱によって刷新しようとする行為を、前者と後者、すなわち非日常性と日常性、どちらの背景によって受けとめるかで、既成のルールからの逸脱が持つ意味も大きく違ってきてしまう。もちろん、そのような意味づけをする以前の段階で、表現の生命的なる部分が誕生してくる現場に立ち、すべての音や動きが、書き割りを持たないダイレクトなもの、具体的なものとしてたちあらわれてくる出来事を経験することそのものに意味があり、同時に、大きな喜びがあるのだとしても。

 ピアニストの新井陽子、ヴォイス/シンガーのおちょこ、ダンサーの木村由、これまでデュオやトリオで個別に共演を重ねてきた3人が、女性ばかりのトリオとして初の即興セッションにのぞんだ。時系列でまとめておけば、ことのはじまりは、中野テルプシコールでおこなった共演『1の相点』(2013518日)を皮切りに、新井と木村が頻繁に共演を重ねるようになったことにある。次の段階では、3.11への思いを新たにするイヴェント『イマココニイルコト』(2014311日)での共演から、おちょこと木村のデュオがスタート(この流れの一環として、フロウ[加藤崇之+おちょこ]+木村由のトリオ演奏が実現した)、最後に、喫茶茶会記における新井の定期公演「焙煎bar ようこ」に、コントラバスの河崎純とおちょこが招かれる(2014618日)という順番で共演が実現してきた。この経緯のなかで、今回のトリオ演奏を特別なものにした要素がすでにあらわれている。その最大のものは、新井陽子と共演しはじめてすぐ、木村がひときわ高い位置からジャンプするような冒険的ダンスをはじめたことだろう。二人の即興デュオは、ごく初期の段階から、「傍若無人」「無礼講」と呼びたくなるような、徹底した逸脱が試されるセッションだったのである。

 逆説的な言い方になるが、新井と木村のデュオにおいて、その場の思いつきを次々と実行に移していく野蛮で原始的、あるいは「実験的」と呼べるような試みのダンスがつづけられているのは、演奏や動きの構成において、几帳面と思えるほどの正確さをもって身体が分節されているという、両者の似通った資質に負うところが大きいように思われる。気ままで奔放に見える実験的試みは、実際には、「傍若無人」にも「無礼講」にも陥ることなく、ときには感性豊かにさえ感じられるものとなるが、これはノイズの少ない彼らの身体性と無関係ではありえないだろう。むしろ積極的に「混乱」や「錯乱」を持ちこみ、身体やパフォーマンスに予期せぬ衝撃を与えることが、一度かぎりの共演に必然性をもたらすことにつながっているのが、デュオにおける即興(的な逸脱)の意味ではないかと思われる。かたや、新たに参加したヴォイスのおちょこは、演奏中に見せる表情のめまぐるしい変化にあらわれているように、この両者と対照的に、すぐれてノイズ的な身体の持ち主といえるだろう。彼女のなかでは、雑多なものが未整理の状態で渦巻いている。楽器の響きとは違い、声というサウンドは、それ自体が音と言葉の双方にまたがる曖昧かつ特殊なサウンドのありようをしている。そうした響きの宙づり状態が、このトリオ・パフォーマンスに特別なありようをもたらしたことは間違いない。

 下手に立ってヴォイスをくり出すおちょこ、上手でアップライトピアノを弾くだけでなく、小型のタンバリンや笛などの小物も使って演奏する新井と、ふたりがそれぞれに点描的なサウンドをつづっていくなか、すっかりおなじみとなったオレンジ色の面をかぶり、壁前の椅子に座った木村は、椅子のうえに立ちあがったり、のけぞったり、ステージ中央に転がっていたもう一脚の椅子を動かしながら踊ったりした。オレンジ面を脱いだセット後半では、金属食器を投げてけたたましい音をさせたり、ナイフを床板の隙間に突き立てて滑らせるなど、過去の共演で見せたダンスを思い出させるアクションで、このトリオにのイメージにそったダンスをくり出していった。場がどんなにとっちらかろうと、ひとたび新井がピアノに集中すれば、たちまち全体がひとつにまとまってくることが、木村の冒険に大きな自由を与えている。公演の第二部、ステージ中央に寄せられた椅子のうえに立った木村は、顔を白くまだら塗りにしていた。ヴォイスが電気的なエフェクトによって夢幻的になり、ピアニストが楽器を離れてアクションをはじめるなど、第一部以上にアクティヴな展開となり、木村の動きもまた、大きな音を立てながら床のうえで七転八倒したり、客で混雑していた隣室の喫茶室に通じる扉を開け放ったり(すぐに閉じられた)、二脚の椅子を足に履くように動かして床のうえを移動していくなど、ダンス的なものをどんどん出外れていった。最後の場面も、ピアノ演奏でまとめるようなことをせず、トリオの三人それぞれが、おたがいのパフォーマンスを注意深く聴きあい、見あいしながら、最終地点を見いだしていった。

 木村由がふたりの演奏家と組んで即興セッションすることは、もちろんこれまでにもあったのだが、デュオにおけるイーヴンな関係と違って、音楽2対ダンス1の割合では、先行する音楽に踊りがついていくという傾向になりがちだった。ヴォイスの本田ヨシ子やキーボードのイツロウと共演する<絶光OTEMOYAN>も、固定したメンバーによるトリオ演奏だが、そこで試みられているのは世界観のぶつかりあいであり、既成のルールを越えていこうとしたり、これまでのルールを組み換えてしまうような予想外の逸脱行為を呼びこむものとは違っている。即興がルールを変えていくだけでなく、さらには、即興そのものを成立させるルールをも変えてしまうような絶対的な出来事が起こるのは、そこにダンスする身体が関わっているからというしかないだろう。音楽的即興を共通の前提にしている演奏家たちの間では浮上してくることのない表現の底辺が、ここではむき出しになっている。そうした定石無法地帯で起こる出来事を、試みにトリオによるひとつの身体の創造と呼んでおきたい。ステージそのものがひとつの身体として立ちあがってくるような表現のあり方を、「新しいもの」として評価すべきかどうかは、ここで早計に判断できないにしても。




*写真提供:長久保涼子  







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