2024年6月24日月曜日

深谷正子: 動体観察 2daysシリーズ[第2回]梅澤妃美、三浦宏予、秦真紀子『月の下の因数分解』


深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ[第2回]

極私的ダンスシリーズ

深谷正子『エゴという名の表出』

日時:2024年6月22日(土)

開場: 3:30p.m.、開演: 4:00p.m.


ゲストダンサーシリーズ

深谷正子(作・演出)『月の下の因数分解』

出演: 梅澤妃美、三浦宏予、秦真紀子

日時:2024年6月23日(日)

開場: 3:30p.m.、開演: 4:00p.m.


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金/各日: ¥3,500、両日: ¥5,000

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

会場受付: 玉内集子、曽我類子、友井川由衣

写真提供: 玉内公一

問合せ: 090-1661-8045


 六本木ストライプハウスのスペースDに移行した「動体観察 2days」2日目は、深谷正子がその身体性に注目しているゲスト・パフォーマーに振付ける実験的かつ対話的なシリーズ企画。2回目の今回は、深谷正子が作・演出した作品を、梅澤妃美、三浦宏予、秦真紀子の3人がパフォーマンスする『月の下の因数分解』が登場した。ダンスの犬 ALL IS FULL の群舞作品がそうであるように、深谷の振付は、ふりうつしによるユニゾンのような伝統的ダンス形式にはこだわらず、自身の身体性を発見するようなタスクを個々のメンバーに与えるという方法で、場面が次々に変化していきながらも物語を語るというのではない、風景の移行のようにして演じられていく。舞台装置も物語を説明するため用意されるものではなく、個々のダンサーの感覚を触発してくるインスタレーション装置として採用されている。深谷の装置の特徴は、小さなものがたくさん集まって空間を埋めつくす草間彌生的な増殖傾向と、天日干ししてふかふかになった布団があなたの疲れた身体を迎えたがっているというような誘惑的性格をあわせもっている。あるいは、羅針盤なしでは出ていくことのできない大海原のような、個人の力ではいかんともしがたい圧倒的な風景の出現と、そうであるがゆえの限りない自由が背中合わせになった状態ということもできるだろうか。この日は観客に外階段で待機してもらい、開場直前に大幅な舞台装置の変更がなされ、スペースDには防水用の透明ビニールシートが敷かれ、ステージ一面には白いコンビニ袋が散乱し、いたるところに水の入った紙コップがならべられていた。公演冒頭では照明がなく、上手と下手にある窓からの自然光が静かに部屋を満たしていた。

  『月の下の因数分解』では、同時進行で3種類の闘争が戦われていたように思われる。(1)作品とはなにかという問いを賭金にした振付家とパフォーマー間の闘争、(2)ダンスとパフォーマンスの境界線をめぐっての闘争、(3)スペースDの空間特性とパフォーマンス間の闘争、の3点だ。ただそう書いても作品そのものは読み解けないし、イメージすることもできないだろう。玄関のついていない『月の下の因数分解』の入口を探さなくてはならないのだ。作品演出上、いつもの深谷作品とまったく違ったのは、梅澤が転倒をくりかえす場面での「ベサメ・ムーチョ」、3人が揃って身体をふるわせる場面での「スウィングしなけりゃ意味がない」、3人が頭をかきむしる場面での「マック・ザ・ナイフ」、床に敷かれたビニールの下から出てくる最後の場面での「オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」という具合に、場面の転換にすべてポピュラーなジャズの楽曲が使われたことである。これは異例中の異例というべき出来事だった。

 楽曲のなかで最重要のものは、3人が床上をのたっていくように移動する場面で流れたハービー・ハンコックの名曲「処女航海」(アルバム『処女航海』1965年)だろう。ジャズを地下室のイメージから解き放った公民権時代のモーダル・ジャズの地上性は、見わたすかぎりどこまでも水平線が広がる開放感にあふれ、スペースDの空間を満たすことで、パフォーマーの身ぶりに結びつけられたその他のジャズ曲と違い、パフォーマーの身体を離れ、大海原を明るく照らす月を連想させた。この世界像があればこそ、公演の後半になって、紙コップの水をビニール袋に移し、さらにそれをポリ容器に移していくという無限にくりかえされる散文的な作業が、水にまつわる縁語として身体を触発するものに変わっていくのである。

 『月の下の因数分解』にそうした虚構性が求められるのは、水を使用したパフォーマンスというだけでは、観客にヴィジョンを与えるような作品性に至らないからと思われる。今月初旬に観劇した蛭田浩子×真鍋淳子『ei 縈』(2024年6月、西荻窪ギャラリーみずのそら)では、一枚の布に包まれるような感覚に開かれた踊りが踊られ、虚構はその邪魔になるだけだったが、スペースDでは、その空間特性によって、トリオがともに存在できる全体性が架構される必要があったということである。七針と違い、スペースDを身体性だけで満たそうとするのはなかなかむずかしい課題なのかもしれない。

  作品性を導くようなダンスが踊られたわけではなかったが、個々のパフォーマンスは、髪の毛をかきむしる、身体を小刻みにふるわせる、右腕を大車輪にまわすといった具合に、タスクへの応答が感受性の違いを見せたり、メンバーにひとりずつやや長めの振付がなされたり、自由に展開するソロの場面が用意されたりして多彩な展開をみせた。最後に床上に敷かれたビニールの下に潜りこむ場面は、そこまでたどられてきた大海原に浮かんでの狂騒的アクションを相対化するような静寂が訪れる(海そのものになる、海から誕生した女神になる)というドラマツルギーを隠し持っていたようである。一匹狼として活動しているダンサーに多くみられる傾向だが、パフォーマーとして長いソロ活動を経てきた熟練者といえど、必ずしも身体がそれに包まれるような世界性を獲得しているとは限らない。それはおそらく個が表現の終着点であり、自己実現こそが最終目標に定められているからであろう。『月の下の因数分解』で突きつけられたダンスの問題、作品性の問題、虚構性の問題は、自分なりの解答を用意することによって、そのような世界を持つ表現者との出会いによって自身をも一気に拡大するチャンスになっていくものである。(北里義之)




深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ