杉本音音
『UzumekuAru ウズメクアル』
Exhibition & Performance
2024年6月26日(水)─ 6月30日(日)
会場: 表参道NOSE art garage OMOTESANDO
(東京都港区北青山3-5-21 加藤ビル5F)
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振付/出演: 杉本音音
美術設計: 鷹野魁斗(建築家)、中山 亘(建築家)
音楽/出演: 中野志保(打楽器奏者)
トーク: 宮下寛司(舞踊・パフォーマンス研究)
ビジュアルデザイン: 岩上涼花
記録写真/写真提供: 関矢昌宏
当日制作: 遠藤七海
会場運営: 佐々木茉優
(NOSE ART GALLERY)
主催・企画・制作: 杉本音音
地下鉄表参道駅から徒歩1分と近距離ながら、初めて訪れた“NOSE art garage”はエレベーターのない縦長の雑居ビルの5階にあり、カウンターのあるバーラウンジといった雰囲気の細長いスペースだった。「人間の身体のほとんどは水でできている」という野口体操でも語られる身体像と、「点滴が隣にあった2ヶ月間」という実体験を経たあとに変化したダンス観や身体観などを念頭に置きながら、「身体が踊る時、踊りが起きる時、何が作用しているのだろうか」と問う杉本音音のダンス公演は、身体の内側、身体の外側からその際のありようをまなざし、観察するようなパフォーマンスだったといえる。
ダンサーの杉本音音の存在は、関かおりPUNCTUMUN在籍時(2019-2022)の活動によって知るようになったが、その後、ダンスを既成の芸術ジャンルのひとつとするのではなく、その発生の瞬間を身体の根源的な掘り下げによって再定義するような、ゼロ年代の先鋭的な傾向を引き継ぐさまざまなメタダンスの試み──木村玲奈の「6steps」や福留麻里の「まとまらない身体と」などのシリーズ、<ダンス作戦会議>が主催した政治的テーマを掲げるダンス集会各種──への参加を通して、自身の活動の方向性が定まっていったように見受けられる。彼女にとってのダンスとは、最初からすでにそこにあるものとして受け取るというよりは、身体になにがしかの問いを投げかけることによってそこに起こってくるもののことであり、終わることのないその再定義なのではないかと思われる。
桟敷席がすぐ目の前まで迫る狭いパフォーマンスエリアに、氷嚢のように、点滴袋のように水の入ったビニール袋を8つほど高低差をつけてゴム紐で吊るしたステージは、通常ならばホリゾントになるべき奥壁の向こうにもうひとつ部屋があり、ブロック造りの壁にあいた大きな窓から部屋の一部が見えるように、半分だけ映像投影用のブラインドをあげていた。ダンサーは性格の異なるふたつの空間を往復して、ときには隣の部屋の明かりにぼんやりと照らされながら影になって踊ったり、ときには水袋にさまざまな触れ方をしながらステージを回遊するように踊っていくのだった。ダンスは「振付バージョン」と「即興バージョン」の2タイプが用意されていて、私が観たのは振付のある回。打楽器で共演した中野志保は、下手コーナーにすわってダンスの背景になるようなミニマルな演奏をするだけでなく、立ちあがって動きに加わったり即興的な展開をするなど、よく呼吸の合ったパフォーマンスでダンスを支えていた。水袋に接触するいくつかのしかたを何度か反復するダンス構成や、ダンサーの手が水袋に触れると同時に出されるサウンドに対応関係があったところなどに「振付」の存在を強く感じさせた。
注目すべきは前半から後半への流れの変化だろう。冒頭で展開される場面は、隣室から漏れてくる電球のぼんやりとした照明のなかで影になりながら踊ったり、上手側のふさいだ窓から漏れるかすかな光に大きくゆれる水袋がかろうじてわかるくらいの暗さのなかで展開したのだが、そこには場所のかもしだす独特の雰囲気というか気配が存在し、それ自体が病室に休んでいるダンサーの記憶を映し出す場面のようだったことである。これが後半になると、下手の観客席横からの白い光がダンサーを前面から照らし出す格好になり、前半の「点滴が隣にあった2ヶ月間」の記憶と交代するようにして、「水袋としての身体」という客観的/科学的認識が前面化、水袋と身体の関係が外から眺められる関係に変わったことである。前半と後半の間で、身体は反転現象を起こしながらダンスを踊ったのではないだろうか。これは理論的な探究というよりも、言葉が途切れたあとの領域──公演の前半と後半のどこかで、外から見える身体と内側から見ている身体との相剋を発生させることで、ダンスの発生地点を素描する試みといえるように思う。公演後、ダンサーが観客に水袋に触れることを強く推奨していたのも印象的で、公演はまさに体験型ダンスパフォーマンスだったといえるだろう。(北里義之|観劇日:6月29日)■
【杉本音々】
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