林 栄一&高原朝彦デュオ
日時: 2012年5月31日(木)
会場: 東京/高円寺「グッドマン」
(東京都杉並区高円寺南3-58-17 プラザUSA 201)
開場: 7:00p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,400+order(¥400~)
出演: 林 栄一(as)
高原朝彦(10string guitar, ARIA/SINSONIDO electric guitar)
問合せ: TEL.090-9395-3576(高円寺グッドマン)
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10弦ギターの高原朝彦が、「尊敬」と呼ぶに値する、ほとんどただひとりの人として名前をあげる林栄一とのデュオ・セッションに臨んだ。ライヴ会場になった高円寺グッドマンは、自身サックス奏者である鎌田雄一が経営する店で、2006年7月、かつて店舗を構えていた荻窪から、高円寺南口にある高架線沿いの飲食店街のなかの雑居ビルの2階に移転した。観客が10人も入れば満杯になってしまう極小スペースである。おなじ飲食店街には、「円盤」という、これまた名物店主の田口史人が、独自の音楽観を貫いて作りあげたユニークなレコード店があり、街場の即興演奏にとって、高円寺は得がたい情報空間のひとつとなっている。一口に「即興」といっても、グッドマンがフリー指向のライヴをするためにある場所なら、円盤は、喫茶空間やライヴ演奏もあるが、(名前の通り)レコード文化を柱にしている場所と大別できるだろうか。瞬間を生きる即興演奏も、録音技術の発展なしにはありえなかった20世紀音楽のひとつであることは間違いないが、それでもいざ実際の音楽作りに手を染めようとするとき、このふたつの要素は、ミュージシャンの感覚や想像力に根源的なインスピレーションを与えるなにかを通して、大きなスタイルの差に結びついているように思う。ちなみに高円寺は、若き日のジョン・ゾーンが日本に滞在していたころ、彼のアパートがあった町としても知られている。
即興演奏は、長くやったからといって質のいい音楽が聴けるとは限らないが、林栄一が参加するセッションは、音響的即興の登場以降、短縮化の傾向にある昨今の即興セッションのなかでは、デュオの場合でも比較的長く演奏される傾向にあるようである。音響においては、ときに前後半あわせて30分という極端なケースもある。この演奏の短縮化という出来事も、お米を秤で売るような量の問題ではなく、即興演奏によって生み出される音楽の質に関わるものといえるだろう。この晩のライヴは、途中休憩をはさみ、前後半それぞれが30分強とコンパクトなライヴになった。高原朝彦は、さきごろ喫茶茶会記で開かれた吉本裕美子とのデュオと同様、前半でアコースティックな10弦ギターを、後半でシンソニードのエレキギターを使用した。高原の場合、10弦ギターがアンプリファイされるのは、音量のためではなく、弓や音叉を使うプリペアドなノイズ演奏に電気的なカラーを施し、サウンドの細部まで聴き手に届かせるためである。サックスとの音量バランスは小さめになるので、休憩時間に、林から「サックスは小さな音で吹くのが大変なんだよ」と言われていた。これは黒田京子とのデュオの際に、どうしてもピアノの生音で消されてしまうから、ギターの音量をもっとあげられないかと注文が出されていたことでもわかる。高原がなじんできたサウンド環境を生かすためには、もうひとり、かえしや外音を整えるエンジニアが間に立って、聴き手に届く音量バランスを調整することが必要なのだろう。
仁王立ちしてサックスを吹きつづける林栄一と、椅子に腰かけてギターをかき鳴らす高原朝彦。急速調のフレーズをたたみかけるように放出しつづけるアルト演奏と、アモフルな音響──すなわち形のないノイズ・サウンドの潮騒が、ものすごい勢いで押し寄せては引いていくギター演奏は、スピードの競合という点では噛みあうものの、音の形のあるなしという点では対照的なものだった。先述した音量の大小に加えて、この音の形のあるなしが、インプロヴィゼーションをソロと伴奏のように聴かせていた。イーヴンであるべきデュオ演奏に、心理学でいうところの「地と図」の関係が成立してしまうのである。ここに高原の尊敬の念がどのくらい反映しているのかわからないが、こうした聴こえ方は、高原のめざす音楽にとって、必ずしも望ましいものではないように思われた。特にエレキを使った第二部では、共演者のスタイルにあわせて、フォービートやブルースの形式を踏まえた演奏をするという、既成の音楽形式を使った対話に流れた部分が大きかった。これはエレキを使用した吉本とのデュオでも聴かれた。シンソニード・ギターを使った高原のフォービートやブルース演奏は、音楽伝統への依拠ではなく、それらをフェイク・フォービート、フェイク・ブルースとでもいうべきまったく別の感覚のなかに置きなおす斬新なものであったことは言っておかなくてはならないが、本来の対話をもっと詰めていっていいデュオを、気配りや器用さが災いして、一挙に平凡な折衷音楽にしてしまうマイナス面も抱えていたように思う。
ふたりの関係性を、デュオ・インプロヴィゼーションとしてではなく、即興を通して林栄一の新たな側面を引き出すコンビとしてとらえた場合、これは理想的な組みあわせではないだろうか。ときにおたがいを無伴奏ソロの状態にする間合いだとか、それぞれが別の方向に走りながらも、注意深く共演者の演奏を聴きあう親和力だとか、デュオがデュオであるための美質をいたるところに聴くことができた。なによりも、フレージングに徹する林の音楽とアモフルなサウンドに徹する高原の演奏とが、並走しながら、異質であるがゆえの対照性を際立たせていくところに、このデュオでしか聴くことのできないオリジナルなものを、すでに漂わせていたと思う。生音であれ電気音であれ、高原朝彦のプリペアドなノイズ演奏は、いったんあるスピード感をとらえると、壁の一面をすべて彼の音色で染めあげてしまうような圧倒的なものになるが、そうしたなかでも、林栄一の切れ味抜群のアルト演奏は、激流をかいくぐって自由に泳ぎまわる鮎さながらに、私たちの目にその航跡を鮮やかに焼きつけながら、生命力に満ちたその魚体を光り輝かせたのである。■
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