2012年6月22日金曜日

入間川正美SOLO@八丁堀 七針


入間川正美SOLO
日時: 2012年6月9日(土)
会場: 東京/八丁堀「七針」
(東京都中央区新川2-7-1 オリエンタルビルB1F)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: 入間川正美(cello)
問合せ: TEL.07-5082-7581(七針)


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 「セロの即興と非越境的独奏」というのが、入間川正美がソロ・インプロヴィゼーションをするときの定番タイトルである。雨の降る土曜日の夜、東京八丁堀にある小スペース「七針」で開かれたソロ公演は、しかしながら、名前と時間と料金だけを看板にしるすという、ごくあっさりとしたものだった。周囲がオフィス街のため、天候の如何にかかわらず人通りのないこの一帯で、店舗の外装もなく、雑居ビルの地階でひっそりと営業する七針をさがしあてるには、路上に張り出したこの看板だけがたよりだ。孤島のような七針と、看板に掲げられた入間川の名前のとりあわせは、大崎/戸越銀座の l-e がそうであるように、さっぱりとして魅力的なアンサンブルを奏でていた。活動歴の長い入間川は、いまどき珍しい硬派のインプロヴァイザーのひとりといえるだろう。「硬派」とはいっても、新井陽子や竹田賢一との共演では、共演者の演奏に全神経を集中し、聴きすぎるほどに聴くというインタープレイを展開するので、フリー・インプロヴィゼーション一本というイメージはない。ひとつのスタイルを墨守するのではなく、むしろ即興演奏が多様であることをふまえた演奏をしている。それでも、ライフワークのソロ演奏は特別のようで、自分の演奏に妥協がないことはもちろん、聴き手におもねるようなふるまいもいっさいないし、サービス精神から演奏にエンターテイメントの要素を加えるようなこともない。自己を剔抉するような行為が「硬派」と呼びたくなるゆえんであるが、本来、即興演奏においては、こうした自己(というさまざまな制度にまみれた文化的存在)を徹底的に問いなおすことは、ごくベーシックな作業だった。

 かつてピアニストの千野秀一から、即興と即興演奏の違いについて問いただされたことがある。あまり考えることのない、虚をつくような質問だったが、自分がいつもどう書いているかを調べて、それを時間経験の有無ではないかと回答した。すなわち、即興とは、演奏が始まる前に私たちが語っているもののことであり、即興演奏とは、演奏が終わったあとに私たちが語っているもののことをいっているのではないかということである。このふたつの時間経験は、即興/即興演奏のことを論じようとする人々に、ひじょうにしばしば混同されており、演奏の前にしか知りえないこと(つまり無知であること)によって即興演奏を語ったり、演奏の後でなくては知りえないことによって即興を語ったりというようなことがおこなわれている。語りや言葉が事後的にしか訪れないということもあり、このあたりの事情はなかなか複雑だ。入間川正美のソロ・インプロヴィゼーションについて、これこれの演奏をしたという記述はもちろん可能だ。ある意味、そのようにするしかない。しかしそれが入間川の即興かといわれると覚束ない。というのも、ごく一般的に、その場の偶然にまかすことを即興演奏といっているとは思えないし、また演奏を通して欲望やエロスの解放がおこなわれたというわけでもないし、さらには、これは重要なことだが、なにがしかのコンセプトや彼自身を表現するために即興演奏をしているとも思えないからである。ただ、演奏のなかで消されている足跡、演奏で表現されることのない彼の即興ヴィジョンには、どうやらそれ相応のルールがあるらしいということは感じられる。

 予想がつかない展開は、演奏者が展開を予想しないようにしているからだろう。弓の中程近くをもち、素早い手さばきで生み出されるミニマルなサウンドが、あるシークエンスを描き出すのだが、それは動機のようなものを構成するだけで、前後の脈絡を欠いたまま別の動機へと連結されていく。伝統的な音楽構造や、起承転結といった演奏の物語性は、譜面レヴェルでも、身体レヴェルでも排除されている。かといって音響的なものを前面化するかといえば、そうしたこともない。入間川の演奏に、楽器を異化することで、(物質のような手応えをもった)音響に聴き手の耳をフォーカスさせるような意図はなく、たしかに弦の接触や圧迫から、さまざまな強度を備えたノイズが生み出されはするのだが、それはメロディの断片を構成したりもするし、ごくたまにだが、強弱のついたパターンを構成することもある。彼の演奏は、チェロの美質を損なうような性格のものではなく、伝統的な音楽ファンにとってそれがどんなに異形の演奏に聴こえるとしても、あくまでも楽器の自然さに従ったものである。そのような楽器との親和性のなかで、演奏内容や自己表現といった目的を持たない、深度を欠いた表層的なサウンドが、物語性を欠いた、断片的なシークエンスによって連結されていくのである。

 入間川のソロ演奏において、そうした物語性を欠いた、断片的なサウンド・シークエンスを構成していたのは、途切れることのない集中力だった。演奏内容や自己表現から遠ざかっているため、あるいは細分化したサウンドのミクロな差異を聴きのがさないようにするため、くりかえし何度もおこなわれる意識の集中。あたりまえのことをいっているようだが、たとえば、入間川の演奏とデレク・ベイリーのスタイルをくらべてみれば、演奏と集中力の関係にも個性があることがわかるだろう。ベイリーの場合、意識が集中する瞬間はもちろんたくさんあるのだが、それと同時に、機械的なストロークになりゆきをまかせ、いわば人力の自動演奏をすることで、意識を散漫に保つ方法も採用していると思われるからである。これは意識の集中からも自由でいようとする態度といえるだろう。聴き手がサウンドばかりに気をとられていると、ベイリーの演奏なかで、意識の集中と拡散が瞬時に反転していく様子はとらえられない。入間川の演奏にこうした反転現象は起こらない。それは彼が、パフォーマンスの自然な展開にまかせた(自動)演奏を、封じこめようとしているからだと思われる。彼のソロ・インプロヴィゼーションは、そうした厳格なルールに従っている。ただ意識の集中には体力のバックアップが必要であり、ここはむしろ身体という自然の領分に属している。ルールを厳守する精神力も、意識的な集中力も、そうした自然の必然性によって途切れる瞬間をもっている。

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