2012年6月5日火曜日

触発するヴィジョン PART 1



緒言


 これから書こうとしているテクストは、あるパフォーマンスを見たことがきっかけになってはいるが、いつものライヴレヴューのようなものにはならない。パフォーマンスは「演奏」と呼べるようなものであり、そこに演奏者がいることから、これを吉本裕美子論ということもできるかもしれないが、そのようにいうには、テクストは彼女の活動をトータルに論じようとするものではないし、また、パフォーマンスに舞台装置を提供した小宮伸二とのコラボレーションの、ただ一度だけの作品性を論じようとするものでもない。たしかにそこではたくさんの響きが聴かれたのだが、また光と影から構成される経験の場が与えられたのではあるが、はたしてそれは音楽だったのだろうか。あるいは音楽と美術のコラボレーションだったのだろうか。そこで私たちに起きた出来事は、そうしたことをすべてすり抜けたところで起こったように思われる。「吉本裕美子」とか「小宮伸二」とかの固有名詞を持たないもの、作品のようななにがしかの構造によって閉じられることのないもの、いわば無意識の領域で、なにひとつ触れることなく触れられていたもの。その出来事に触れるためには、そこに居あわせたたくさんの人々によって織りなされていた、複数の感覚のキアスム状態とでもいうべきものを言葉にもたらすことが、一番の早道のように思われる。その意味で、このテクストをひとつの感覚論ということはできるかもしれない。


退隠する演奏家

 道端で拾った(と彼女はいった)捨てられたガットギターを、調弦もしないまま──正確にいうなら、調弦もしていないことを表現する不協和音を出すように「調弦」もしないまま──観客席の間をふりまわすように持ち運び、指先で弦をひっかき、ときには抱えてガチャガチャとかき鳴らす。ラトルや鈴を束ねた飾り物を糸巻きの部分にくくりつけ、歩くたびに可憐な音をさせながら、観客席の中央では、四角い台のうえに置かれていた丸く透明なガラス製の水鉢に、ギターヘッドから垂れた飾り物の先端を触れさせる。ガラスのたてる涼しい音を、水鉢の底のセンサーがとらえて増幅する。水鉢の縁に触れることが何度かおこなわれるうち、かけた紐がペグからはずれたのか、飾り物の一部分が床に落下した。部屋の四隅と中央に配置された5つのシリンダーから落ちる水滴の音は、パフォーマンスの間、水琴窟のように不規則なリズムで鳴りつづけながら、水鉢の周囲にいるものを飛沫で濡らした。粗大ごみに出されたガットギター、オモチャの鉄琴、エレキギターと、楽器をひとつひとつ経めぐっていくパフォーマンスが、水滴の落下音を聴くために沈黙するという瞬間はなかった。それは誰の目にも見える「舞台装置」としてありながら、あくまでも響きとは別の世界のものであり、糸巻きから垂れた飾り物によって初めて触れることができるものとして、視覚的に表現されたのである。音楽を解体したり破壊したりするのではなく、演奏者がただそこから深く退隠する(引きこもる)こと、そのようにして場所を空けることで、私たちの感覚を音に直接触れるように誘惑すること。

 音楽からの退隠、引きこもり。同様にして美術からの、あるいは映画からの退隠、引きこもり。音楽と美術のコラボレーションをうたった公演に、どうして映画が登場するのかといえば、パフォーマンスする吉本裕美子を触発するものが、風景や映像、それも映画的なモンタージュとともにある映像の流れであり、彼女の提示するサウンドが、まぶたを閉じた私たちの眼に、物語を喪失した映像を映し出すからである。観客席の間を歩きまわることから定位置でのエレキギター演奏に移行した彼女の背後には、天井まで届く大きな白い布が張りわたされ、幕の向こう側にセッティングされた6番目のシリンダーと水鉢のセットが、強いライトを反射して、したたる水滴に揺れ動く水面や波紋を、布のスクリーンに映し出している。会場照明も、水鉢に真上から(水滴のように)落ちるスポットライトがあるだけで、それらはむしろ、私たちが暗闇とともにあることをきわだたせるような、儀式的な光を投げかけていた。聴くことにおいて響きが音楽から退隠していたように、見ることにおいてもまた、映像は美術や映画から引きこもっていたように思われる。記号的な引用のない、そのような場所で私たちが見ることになったのは、小宮伸二の、吉本裕美子の、そして私たち自身のものでありながら、すでに出所不明なものとなった交錯するヴィジョンだった。


映画的モンタージュ

 パフォーマンスのプロローグ部分で、幕の向こうに影があらわれる。右に左にと動きながら、やがてギターを手にすると、糸巻き部分になにかをぶらさげる。あまり時間をとらずに、影の主は、ステージ上手の幕の端から観客の前に姿を見せる。能舞台ならば、橋懸りからいよいよ本舞台へという緊張感にあふれる場面だが、吉本のパフォーマンスに儀式めいたところ、芝居がかったところは微塵もない。ただ出てくるのである。影絵の世界となったこの導入部は、物語的には、モノクロ映画の主人公が映画の外に出てきてしまう、ウディ・アレン監督の『カイロの紫のバラ』(1985年)を連想させるものとなっている。あるいはパフォーマンスのエピローグ部分で、楽器や音響機器に自動演奏をさせた吉本はそのまま退場、あとにはスクリーンのうえに波紋を広げる光だけが残された。これは最初、吉本がロックを演奏することから、ロック・コンサートでおなじみのドラマチックな幕切れの演出を引用したものと解釈したが、音楽から映画の文脈に出来事を移してみると、この最後の場面もまた、映画が終わったあとのエンドロールとして見えてくることに気づかされた。音楽や映画から演奏家が退隠(引きこもり)することによって残される感覚的な世界の直接性について、あるいはむき出しになる私たちの感覚について、この最後の場面ほど、ACKid初日公演において起こった出来事の性格を、雄弁に物語るものはないだろう。(PART 2 に続く)


   ■「触発するヴィジョン PART 2」


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