環境音
このように交錯するヴィジョンのなかに侵入してくる、もうひとつ別の映像について触れておかなくてはならない。それはパフォーマンスの進行中に挿入された環境音である。最初に流れたのは、ホールの外に立てられたマイクが拾う当日の雨の音。あるいはホール前の舗道を話しながら歩く通行人のざわめき。現在時の侵入というべきもの。キッドアイラックでは、道路側の壁を背にして座ると、静かな音楽演奏のとき、外を通る人々の雑踏が気になるほど大きく聴こえることがよくある。またこの壁をおもての道路に開いておこなう街角パフォーマンスもある。移動可能な壁は、あってないようなものであるが、カテーテルから落ちる水滴が作り出す光と影の世界は、暗闇を密封した空間だったので、外界に開かれた環境音は純粋なサウンドとして体験されることはなく、まるで地下室に空いた窓から見える風景のような、ありえざるものの効果をもたらした。次に流れたのは、他の日にあらかじめ録音されていた雨の日の環境音。暴風雨のようになったのは風の音が吹きこんだためという。こちらは過去時の侵入というべきもの。環境音の導入は、「水滴」と「雨」を縁語とする言語的な連想をもとにしているが、そこで観客が実際に体験したのは、フィールド・レコーディングによる即興的サウンド・コラージュで聴かれるような、環境音と水滴のサウンド・アンサンブルといったものではなく、圧倒的な風景の侵入と呼ぶべきものだったように思われる。聴き手ひとりひとりの記憶を強烈に喚起しただろう雨の日の音風景は、誰のものということのできない、無数の風景の重ね描きのようにして観客を包みこんだ。
舞台装置
感覚やイメージをダイレクトに触発するサウンド群とともにあった「舞台装置」は、音楽から引き退いていく演奏者にふさわしく、光と影によって織りなされるモノクロームの世界を構築していた。パフォーマンスの冒頭、演奏者に影の登場を選ばせた装置は、キッドアイラックを美術品を並べるような均質空間ではなく、暗闇を密封するような経験の場所に変えていた。墨絵のように感じられる単彩の、奥行きだけから構成される場所。幕に映し出される水紋、シリンダーから落ちる水滴(の音)は、なにごとかを表現するものというより、倒産してがらんどうになった運送会社の巨大な倉庫のようになにもない場所を、それでも仮初めの装置として提示するためのインデックスのようであった。観客たちが実際にみずからの触覚で、視覚で、あるいは身体を使って触れてみることがなくては決して姿をあらわすことがないような、それ自身がスクリーンとなるような経験の場。
点滴用のシリンダー、決まった速度で水滴を落とすカテーテル、水滴、ガラス製の水鉢、視線をさえぎる大きな幕といった舞台装置は、しかしながら、私にとって、個人的な記憶を喚起してやまない道具立ての側面があった。その晩年、長期入院した母を毎日のように見舞った病院の記憶である。抗生物質を弱った患者の身体に入れるときの速度の管理を、家族がする場合もあったし、カーテンで仕切られた大部屋のベッドは、隣の患者の寝息が感じられるくらい狭いものだったが、個人のプライバシーが厳守される治療に際しては、決して開けることのできない厚い壁になるということ。そして介護の鉄則として最初に私の記憶に残ったのが、明るい場所から暗闇に入ったとき、次第に眼が慣れてくることを意味する「暗順応」という言葉だった。体力が衰え、身体が衰弱してくる命の坂道を下りながら、なおもそこで生活をする(生命を維持する)とはどういうことかを知るために、健常者が健常者のままで患者をまなざすのではなく、いま患者のいる暗い場所に移り住んで眼を慣らさなくてはならないということである。病に苦しむ他者を目の前にしたとき、これまで当たり前だった想像力のスタイルを変えるという要請がもたらされる。こうした介護生活のなかでくりかえし経験することになった、病める身体や医療機器に触れる感触のすべてを、小宮伸二の舞台装置は私に思い出させた。光と影からなる暗闇の世界は、夜の病室へと通じ、カーテンの向こうに死を待つだけの患者の気配を感じさせ、したたり落ちる水滴は、いまも気の遠くなるような点滴の時間をやり過ごしているベッドサイドの自分を感じさせる。病人にとって脱水症状は命取りだ。水滴は生命のしたたりそのものなのである。
結語
<ACKid 2012>の初日を飾った小宮伸二と吉本裕美子のパフォーマンスは、視覚と聴覚を総合するアートの越境的な共同作業というテーマを越えて、あるいはその水面下で、感覚を触発するさまざまなヴィジョンが、おたがいの異質なありようを崩すことなく、何重にも重ね書きされる交錯状態のままで出現しては消えていく、特定の方向性を持たない出来事として経験された。いくつかの場面をモンタージュしたパフォーマンスは、たしかに映画のように、音楽のように、時間的な経過を追ってあらわれたのではあったが、そこには起承転結の物語性や、ひとつの場面を別の場面に関係づけるような論理構造がなかったために、いわば並列状態で観客にもたらされることとなり、感覚を触発する様々なヴィジョンが、それぞれの向きに観客の身体を奪いあい、引き裂くことになった。そこはすでに誰が誰のヴィジョンを見ているのか、生きているのかがわからなくなるような、遠近法を喪失した世界だったのである。そのようにされても私たちが生きたままでいられるというのは驚きだが、おそらくはこれこそがヴァレリーのいう「錯綜体としての身体」だと思われる。ギタリストを名乗っているから、即興演奏をしているからといって、吉本裕美子が音楽を想像力の源泉にしていると考えるのは、とんだ勘違いなのかもしれない。彼女自身は、自分の演奏を、その場での思いつきも多い、無意識にやっていることといい、それを「即興」と呼ぶこともある。しかし彼女の演奏は、かつてのニュージャズやフリー・インプロヴィゼーションがそうであったような音楽の脱構築とは違う、言語的な行為の外側にあって「即興」を再定義するものとなっている。そうした吉本の演奏の固有性が、小宮伸二とのコラボレーションによって前面化されることになった<ACKid 2012>の初日公演は、なかなか出会うことのない出来事と経験の場であったと思う。■
■「触発するヴィジョン PART 1」
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