Anarchy Egoist
── ハリネコ 航 天国 ──
日時: 2012年6月7日(木)
会場: 東京/代々木「Bogaloo」
(東京都渋谷区代々木1-42-4 代々木P1ビルB1F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.
料金/前売: ¥2,300+order、当日: ¥2,500+order
問合せ: TEL.03-3320-5893(代々木ブーガル)
【出演】
[1]「ハリネコ」沙知(piano, vocal) 諏訪 創(drums)
内田典文(PA, sounds, bass guitar)
[2]航 SOLO(piano, vocal)
[3]「天国」宮国英二(vocal) 本間太郎(piano)
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ピアノの弾き語りで、ゆるぎない歌の世界を構築している航と、私たちが知っている歌のイメージを、過激に、かつ華麗に逸脱していく宮国英二と本間太郎のコンビ “天国”、この2組が対バンをつとめる “ハリネコ” 主催のライヴ「Anarchy Egoist」が、代々木ブーガルで開かれた。ハリネコはヴォーカルの沙知を中心とするトリオのバンドで、ドラムスの諏訪創の他に、いつもはPAを担当している内田典文が、この日はエレクトロニクスやベースの演奏でステージにあがった。ポップをあえてフリーな演奏と合体させ、ひりひりとするような不安定さのなかに歌を置く実験精神にあふれている。かたや天国は、まるでフレディ・マーキュリーとフランク・ザッパのかけあい漫才のようなMCをしながら、巻上公一の言葉を借りれば、綿密に作曲されたと覚しき「超歌謡」(これまでの歌のありかたを超えていくような歌)で、ブラックジョークと暗黒の歌の間を綱渡りするという、かなり危険で、これまた実験精神にあふれたパフォーマンスをしてみせた。そこで聴くことができたのは、少しややこしい言い方になるが、洗練された歌のなかでは、まるで最初からなかったかのようにして隠されてしまう境界線、たとえば、<言えること/言えないこと>、<感じられること/感じられないこと>の境界線を露出させながら、声が生きている現在を示してみせるパフォーマンスとでもいうようなもので、「地下室の歌」といったらあまりにも安易かもしれないが、いずれにしても、歌という器に、これまでにない新たな感覚を盛ってみせる三つの声なのであった。
そのなかでここでは、何度となくライヴを聴いてきたいまでも、その歌を目の前にすれば、ただひとり懸崖を歩き、高峰をめざして登山する孤独のありようが、山巓での清涼な空気感や、雲海を眼下に臨む解放感とわかちがたく存在して、聴き手を強く打つ航のソロ・パフォーマンスに触れておくことにしたい。端的に言うなら、航の歌を聴くということは、居ながらにして登山をするようなものといえるだろう。言葉がメッセージを放つ瞬間でも、彼女の声がつねに内面に向けて発せられているように聴こえるのは、おそらく自らの声を構成するサウンドに、彼女が細心の注意を払っているからではないかと思われる。どんなピアノの強打のなかでも、その響きとサウンドしながら、はっきりとしたエッジをもって耳に立つ声と言葉。以前に書いたことだが、それは注意深く選ばれた声の文体というべきものである。誰でもそうであるように、たくさんある声のなかで、自分のめざす歌の世界を構築するために必要なものだけを選択し、組み合わせ、磨きあげたもの。選ばれたサウンドの適切さ、サウンドを選ぶ耳のよさから、声の強靭さ、メッセージの強靭さ、歌の強靭さが、ひと連なりになって立ちあがってくる。耳に心地よく、それでいて簡単に人を寄せつけない声。
この日演奏されたレパートリーは、サイレンのようにけたたましい調子で鳴らされるピアノの連打と、その直後の静かな歌い出しの対比が印象的な「独標(どっぴょう)」、人々が動き出す前の明け方の静かな気配を映した「朝の匂い」、ミニマルでコミカルな言葉遊びの曲「きなこさん」、スローバラードが中間部で細かなピアノのさざめきに移りゆき、やがて潮騒のようにふくらんでいく「坂」、ダンサブルな蜘蛛のパートと風にそよぐ花畑を映したようなパートからなる「蜘蛛と花」、そして日の出前の時刻、紫に染まる雲海を歌った短い曲「雲海」など、最近作の『Do-Chu』や小窓ノ王『Tension』からの楽曲を中心に演奏された。一曲だけだが、まだ詞やタイトルがない工事中の新曲もあった。普通ならば楽曲のサビにあたる部分は、気分の転調も含め、それまで歌われてきたことの発展として書かれるものだと思うのだが、航の場合、それはまさに接ぎ木のような連続としてあり、むしろもうひとつ別の声の衝動を解き放つ曲想へのジャンプのようなものとなっている。実際に、ここを境にして、声の使い方もがらりと変化する。それはひとつの楽曲というより、まるで交響曲のように、「第一楽章」「第二楽章」と呼びたくなるような独立性をたたえている。おそらくはこの独立性が、全体として、航の楽曲がプログレッシヴに聴こえる理由のひとつなのだろう。
航がソロのライヴで毎回歌うことにしている歌に「山頭火」がある。おそらくは彼女にとっての特別な歌。航は都会を歌わない。かといって田舎を歌うわけでもない。あえていうならば、放浪のなかで句作した俳人、種田山頭火の独歩に深く共感しているように、それらは世外を生きる歌である。もちろんこういったからといって、彼女の歌が特別に変わっているというわけではない。むしろ山頭火の俳句のように、自由に書かれ、あまりにも平明であるために、その独自性が見過ごされてしまうようなものになっている。内面に向かって放たれる声の孤独なありようとは裏腹に、彼女が歌う世界はとても広々としている。この世界の広さ、容易に人に会うこともない道行きが、現世のしがらみのなかで喘いでいる人々を、解放することにもなるのだろう。その歌「山頭火」は、山頭火の俳句を本歌取りにしたもので、なんと俳人の道行きに、ブルージーにスウィングするテンポが与えられている。ちょっとしたロードムービーの印象だ。その一方、サビの部分では、一転してたたみかけるような激しい展開となり、火宅の人であった山頭火の、それこそ火傷するような内面に触れようとする声が、山頭火の言葉を連呼する。ふたつの声が描き出すふたりの山頭火は、航のなかに住むふたりの誰かを映した鏡ではないかと思う。■
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代々木 Bogaloo