2012年10月8日月曜日

ヒグチケイコ・ソロ: nothing is real vol.5



ヒグチケイコ ソロ
Keiko Higuchi Solo Acoustic Series
nothing is real vol.5
日時: 2012年9月25日(木)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+drink order
出演: ヒグチケイコ(vocal, voice, piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)

【演奏曲目】

■ 1st set
「You Don't Know What Love Is」(Gene de Paul/Don Raye)
「yes, sister」(keiko higuchi)
「Muddy Water」(Nick Cave)
「How Deep Is The Ocean」(Irving Berlin)
「ただの男 - another man」(keiko higuchi)

■ 2nd set
「Little Bit of Rain」(Karen Dalton)
「I Love You More Than Words Can Say」(Karen Dalton)
「Black Coffee」(Paul Francis-Webster/Sonny Burke)
「みだれ髪」(星野哲郎/船村徹)
「Crazy」(Patsy Cline)
「Mon Enfance」(Barbara)
「Lover Man」(Jimmy Davis/Roger Ramirez & Jimmy Sherman)



♬♬♬



 ヴォイスのヒグチケイコが完全アコースティックでのぞむコンサート・シリーズ「nothing is real」が、冒険的な音楽に会場を提供している喫茶茶会記で隔月開催されている。シリーズでは歌とピアノだけで演奏することもあり、特別ゲストを迎えることもある。第五回目となる今回は、すでに収録がすみ、リリースを待つばかりとなったソロ・アルバムからの曲も含め、新たに構成された楽曲群をピアノ弾き語りする伝統的なスタイルでおこなわれた。よく知られるように、ヒグチのソロ・パフォーマンスは、エフェクター類で声をループさせたり、複数化したりするやり方も持っている。彼女の場合、そこに生じる魔術的な効果は、ワレンチナ・ポノマリョーワやディアマンダ・ガラスなどと違って、聴き手に呪いをかけるような声の神秘主義へと落ちこむことなく、もっと機械的な身体、すなわち(ダナ・ハラウェイ流の)女の(あるいは女声の)サイボーグ化を引き寄せるようである。ここで詳述はできないが、個人的には、この機械的な身体こそが、ヒグチがソロのテーマにしている女の生=性を、観念的なものではなく、物質的なものとして観察するための装置となっているのではないかと推測しているのだが、いずれにせよ、スタンダードな曲に(アドリブや編曲ではなく、即興によって)大きな身体的変容をもたらす彼女のパフォーマンスでは、こうした声の魔術化=マシーン化も大きな魅力となっている。

 そうしたある種のわかりやすさを捨て、あえて完全アコースティックの演奏にのぞもうというのが、本シリーズの趣旨である。しかしながらヒグチケイコがヒグチケイコであることに変わりはなく、この晩も、ピアノの即興演奏で、原曲がわからなくなるくらい曲に変容をもたらし、低いバイブレーションを波打たせるヴォイスで、世界を濃厚な夜の色に塗りかえていくという彼女ならではのパフォーマンスが全面展開した。ときに気分次第で変更されることがあるにしても、演奏はそれなりの曲順にしたがって進行していく。しかしそうしたことが印象に残らないのは、彼女のピアノとヴォイスが、まるで大きな石の塊をごろんと床に転がしたかのように、ひとかたまりの音として表現されるからである。物質の手ごたえを持ったサウンド群といったらいいだろうか。歌のメッセージは静かに手渡されるのではなく、圧倒的な水量の津波が襲うような危機的な事態とともに聴き手に “押し寄せる”。高いテンションを維持した演奏、身体から発散されてくる夜のムード、呪術的な声の魔力といったいくつもの要素から、女性シャーマンと呼びたくなるような雰囲気を持ったヒグチケイコだが、前述したように、彼女にそうしたミスティシズムの衣装をまとう意図はない。

 このように書いてくると、もしかすると、個々の楽曲は単に即興するための素材にしかなっていないように受け取られるかもしれないが、けっしてそうしたことはなく、逆に、楽曲はそこを通じてヒグチの内面に触れる通路となっており、当然のことながら、彼女を触発するような作品が厳選されている。ヒグチ自身がMCのなかで「私は女とともにいる気持ちでソロをやっている」と印象的に述べていたように、またこれまでにも、機会があるごとにくりかえし語ってきたように、パフォーマンスのテーマは声による即興演奏であり、女の生=性なのである。このテーマに噛みくだいた解説をつけることはむずかしいようで、想像するに、それはおそらく言葉で説明できるような言語的ヴィジョンではなく、声とピアノのパフォーマンスによってただ一度だけ生きられる、歌い手の実存と深くかかわるものだからではないかと思われる。言いかえるなら、演奏という生命的なもののあらわれが、同時に生の一場面であり、性的なものの獲得であり、あれこれの欲でもあり、(あえてつけ加えるならば)聖性であり、精神性のあらわれでもあるような瞬間の実現に他ならないというようなこと。そうしたことを(言葉ではなく)演奏によって考えるというのが、ヒグチケイコのやり方なのではないだろうか。

 テーブルを囲んだ一団の観客が声高に談笑するなか、最前列の暗がりに置かれた椅子に腕組みをしてすわり、意識を集中して静かに開演時間を待っていたヒグチは、やおら立ちあがってピアノの傍らにつくと、鍵盤とピアノ線を交互に鳴らしながら、ヴォーカリーズで声を出しはじめる。ときおり強烈に鍵盤をたたいて出される大きなクラスター音。言葉はない。異様な緊張感に会場が静まりかえる。水滴が落ちるように鳴らされるピアノ音とともに歌われる断片的な英語から、やがてそれが、彼女がよく歌っているジャズのスタンダード「You Don't Know What Love Is」だということが、おぼろげに理解される。原曲のフェイクという以上の破壊的な再現。そのままピアノ椅子に座って、トレモロの連打が始まると、曲はすでに自作の「yes, sister」へと移行している。ピンと張りつめた緊張感のなかで進行していくパフォーマンスは、あれこれの楽曲を並べたピアノ弾き語りというより、切れ目のない即興演奏のなかに、いろいろな歌詞の断片が浮きあがり沈んでいくものといったほうが正確だろう。ヒグチケイコのソロ・パフォーマンスは、オリジナルとカヴァーという楽曲の出自にかかわりなく、歌によって引きずり出された女の身体をまな板に寝かせ、声をメスがわりにしておこなう生体解剖のようだった。■




※上掲のミュージシャン写真はサウンドチェック時のもので、本番では髪を下ろし、両手に黒いリストバンドをし、照明をより暗いものにセッティングしたうえで、ライヴがおこなわれました。




   【関連記事|ヒグチケイコ】
    「夜の音樂」(2012-01-20)

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2012年10月6日土曜日

木村 由 with ノブナガケン: a shadow



「a shadow」
木村 由 with ノブナガケン
日時: 2012年10月2日(火)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「イエロービジョン」
(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-2-2 阿佐谷北2丁目ビル B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+drink order
予約・問合せ: TEL.03-6794-8814(Yellow Vision)

【出演】
第一部:「a shadow」
木村 由(dance) ノブナガケン(voice, percussion)

第二部:「無何有の郷」
波那本孝一(dance)



♬♬♬



 木村由のちゃぶ台ダンス「夏至」を、6月21日の夏至の日に経堂の “ギャラリー街路樹” で見てから、直観的なひらめきをたよりに、スピード感をもって次のステージを構想する彼女のパフォーマンスを、時間の許すかぎり追ってきた。ひとつには、イメージを重んじるダンサーにとって、もう一枚の皮膚ともいえる衣装などは準備するものの、パフォーマンスには、できるだけ徒手空拳の状態で臨もうとする即興演奏家たちとのセッションがある。もうひとつには、ちゃぶ台ダンスはもちろんのこと、ダンサーのなかではかなりの下準備をして公演に臨むタイプという側面が出たと思われる、「真砂ノ触角」「並行四辺系」などのテーマ性を持った作品群がある。いずれにしても、ひとつの身体がひとつの場所に立つのであるから、ふたつの系譜は確然と区別されているわけではないだろうが、だからといっておなじともいえないもので、演者の心を忖度して言うならば、そこには共演者(サウンドといってもいい)との出会い方の相違というものがあるように思われる。テーマを発見し、あるいは新しくテーマを作り、演奏家からやってくるサウンドを、こちら側の身体的な衝動とリンクさせることができた段階で反復が可能になるというような。たぶんそれを、見かけは似たような身体語法を使っていても、身の向きあい方が根本的に異なったパフォーマンスということができるように思う。

 波那本孝一のダンスの現在を見るために企画された「ダンス2本」で、木村由は打楽器のノブナガケンと共演した。この組合せは、黒のワンピースという衣装も違えば、深紅の草履も履かれなかったものの、おそらくは木村のかぶった小面が、絶大の魔術的効果をもたらすためだろう、井の頭公園にかかる七井橋のうえでおこなわれた橋上ライヴ「橋月」(7月27日)の記憶を鮮烈に呼び起こすものだった。夢幻能のようだった「橋月」は、橋を渡る人々の間を縫いながらパフォーマンスするゲリラ的なライヴだったため、演奏者たちが出すサウンドは、環境に拡散して雑踏や公園の暗闇のなかに沈みこみ、少しでも油断すると聴こえなくなってしまうというようなものだった。いまにして思えば、演奏者たちは、自分の表現のために音を出すというより、音をなかだちにして環境に身体を開こうとしていたのだと思う。「東京創造芸術祭 アジール~真夏の夜の即興祭」(7月31日~8月3日)のスタッフとしてふたりは顔をあわせ、ここでも共演をしている。その意味でいうなら、今回の公演は、こうしたふたりの交流を引き継ぐ意味合いを持っている。私がこれまでに聴くことのできた木村の共演者は、大正琴の竹田賢一、ピアノの照内央晴、ギターの吉本裕美子、そしてチェロの入間川正美といった人々だが、そのなかにあってノブナガケンは異彩を放っている。それは彼の演奏が、時間を構成するものではなく、環境に音を置いていくインスタレーション的なあり方をしていることと深く関係するように思われる。

 トレードマークになったフレームドラムやラトル類、鉦などの小物を用意してステージ下手に陣取ったノブナガケンは、パフォーマンスの冒頭、共演者のいない舞台にひとり座しながら演奏をすすめる。マイクなしのアコースティックな環境。聴こえるか聴こえないかの音量で、S音を強調したかすかなヴォイスが断続的に響く。リズムを出すことのない彼のフレームドラムやラトル類のように、意味のない、あらゆる感情を欠いたサウンドは、それ自体が白紙であること、空白であることによって、なにかの訪れを迎えるための「なにもない空間」を構成する。美術用語であるインスタレーションは、それ自体が形式を持ったジャンルのことであり、結局のところ、作品を見せることを目的に空間を開くことを意味しているが、ノブナガケンもまた、一種の儀式的なふるまいによってひとつの(なにものかの出現を迎える)場を開く。重要なのは、そのようにして開かれた場に、彼自身は姿をあらわさないということだろう。足もとのラトルを裸足の足指でこねて音を出し、目を閉じたまま、意味を欠いた浄瑠璃ふうの声調を出しはじめる。やがて満員の客席をかきわけて、小面の能面をつけた木村が、この空間に静かな足どりで侵入してくる。ステージに上がる直前で激しく手を打ちあわせると、一瞬にして時間が分節され、場面が転換する。フレームドラムで音を出しはじめるノブナガと、盆踊りを踊るように、遊び女のように、高く手踊りしながら舞台の上手に入る木村。

 ステージ上手に立った木村がゆっくりと観客席に面をむけると、ノブナガはいままですわっていた椅子から立ちあがって楽器を打ちはじめる。緊張感のみなぎる異様な雰囲気のなかで、小面の女が、奇怪でもあれば誘惑的でもあるようなしぐさ、私たちの常識となっている動作の意味を錯乱させるようなしぐさを次々にくりひろげていくパフォーマンスは、すでにそれがダンスであることを忘れさせるほどに亡霊的なものを(その身体から)呼び出しており、一部始終が木村の独壇場となっている。音楽は、特にそれが即興演奏の場合、こうした身体表現とずれていくのが普通だと思うが、ノブナガケンは木村の動作を読みきり、能面にさえぎられた演者の視界が共演者とのアイコンタクトを妨げていると思えば、パフォーマンスする彼女の目前の床にフレームドラムを投げ出しながら演奏するなどして、「a shadow」を破綻のないパフォーマンスにしあげた。これはノブナガがプロデューサーの役割まで果たしたことを意味するだろう。即興演奏とダンス・パフォーマンスの共演は、時間と空間という別々の領域をスパークさせる楕円世界を立ちあげるところに、境界に立つ危機的瞬間の創造性を引き出してくるのであるが、それが「a shadow」では、破綻のない、境界線を消去したパフォーマンスとなったのである。こういう共演スタイルもあると理解すべきなのだろうか。結果的に、ノブナガケンの演奏は、木村由が呼び出そうとした亡霊的なるものを封印し、その奇怪な動作にサウンドで意味を与え、観客にわかりやすく解説することになった。こうしたなりゆきは、この日、木村由の「a shadow」としてふるまったノブナガケンの、演奏家としての資質に負うところが大きかったように思われる。■



  【関連記事|木村 由】
   「並行四辺系」(2012-09-10)
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   「木村 由+照内央晴@高円寺ペンギンハウス」(2012-08-26)
   「竹田賢一: 大正琴即興独弾」(2012-08-14)
   「橋上幻想──橋月」(2012-07-30)
   「木村 由: 夏至」(2012-07-23)

  【関連記事|ノブナガケン】
   「橋上幻想──橋月」(2012-07-30)
   「Bears'Factory Annex vol.5」(2012-02-27)

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2012年10月3日水曜日

毒食 Dokujiki 2



中空のデッサン|Un croquis dans le ciel
Vol.30
毒食2 Dokujiki 2
日時: 2012年9月19日(水)
会場: 吉祥寺「サウンド・カフェ・ズミ」
(東京都武蔵野市御殿山 1-2-3 キヨノビル7F)
開場: 6:30p.m.、開演: 7:30p.m.~
料金: 投げ銭+drink order
出演: 森 順治(alto sax, bass clarinet) 林谷祥宏(guitar)
橋本英樹(trumpet) 岡本希輔(contrabass)
問合せ: TEL.0422-72-7822(サウンド・カフェ・ズミ)



♬♬♬




 コントラバスの岡本希輔が主催する「中空のデッサン」シリーズで企画された三回連続の「毒食」セッションの第二回公演が、現在、本シリーズの会場になっている吉祥寺ズミでおこなわれた。これはそのつどごとに変わる演奏家のソロを定期的に聴いてみる、あるいは、参加する演奏家がおたがいのパフォーマンスを聴きあうという、特別な趣向をもった即興演奏のプログラムで、エンターテイメントやイベントというよりも、むしろ公開の音楽セミナーだとか教育カリキュラムの性格が強く前面に出たものとなっている。即興演奏の知識があれば知見はさらに深まるだろうし、そうでなくても、ミュージシャンが日頃なにを考えて演奏をしているかが実例とともに示される。そうはいっても、私の知るかぎり、演奏がよかったときにおたがいの健闘を讃えあうというのならともかく、インプロヴァイザーが終演後に仲間の演奏について感想を述べあったり、コメントを加えたり、批評したりする習慣はないように思う。そうした習慣は「毒食」セッションでも守られていて、終演後の打ちあげの場でかわされる音楽的な雑談のなかで、問わず語りに、いまのインプロシーンや音楽を取り巻く社会的な環境について、あるいは即興の歴史などを話題にしながら、強いられることのない自然な交流と、結果としての教育的な配慮が図られていくという印象であった。

 林谷祥宏、橋本英樹、森順治、岡本希輔らの参加者が、実際にライヴをしてみて、個々のソロ演奏をならべるという公演スタイルに慣れたこともあるのだろう、セッションは前回よりのびのびとした内容になった。演奏順をくじ引きで決定するのは変わりないが、前回はひとり30分ずつのソロを一巡するという構成だったものが、来場者数の出足が悪かったことから、遅れてくる観客のため、今回はひとり15分ずつのソロを二度おこなうという構成に変更された。そのため個々のソロが並び立つようにセパレートして聴こえた前回とくらべ、第二回公演は、ソロ演奏を次々にリレーしていくような感じになった。この公演スタイルの変更は重要なものだったと思う。というのも「個々の演奏はソロとしておこなわれるものだが、この場の演奏としては連続したものなので、やはり他のミュージシャンの演奏に影響を受けるだろう」ということを、店主である泉秀樹の質問に答える形で林谷が述べたからである。また実際の公演からはわからないが、この日のサウンドチェックは、ひとりずつ順番におこなうというのではなく、そこにいた全員がいっせいに音出しするというもので、参加者のアンサンブルが「毒食」セッションを支えているということが事実としてあったからである。実際に共演してアンサンブルしてみることと、観客席で仲間の演奏を聴くこととの間にある違いは、おそらく違いが違いと認められないほど小さいものだったはずだ。ソロ演奏における本質的な相違は、むしろ前後半で15分ずつ二度やってくるソロ演奏を、連続したものとして演奏するのか、あるいは違いを際立たせて演奏をするのかという選択にあらわれたと思う。
 前後半の演奏順は以下の通り。

 第一部:橋本英樹、林谷祥宏、岡本希輔、森順治
 第二部:岡本希輔、橋本英樹、森順治、林谷祥宏

 くじ引きの結果、トップで演奏した橋本は五番目に再登場、次の林谷は六番目と、いずれもじゅうぶんな時間をはさんでの演奏だったのにくらべ、岡本は森順治をはさんで二度目の演奏、森順治は三番目ということで比較的短く、個々の演奏条件にそうとうな違いが出た。休憩していた時間をのぞき、ひとり15分で単純計算すると、岡本希輔(15分)<森順治(30分)<橋本英樹(60分)<林谷祥宏(75分)という順番で待ち時間が増えていったことになる。二度目の演奏をどんな内容のものにするかを最初に示すなりゆきになった点も含め、メンバーのなかで最も過酷だったのが、コントラバスの岡本だったことは言うまでもないだろう。その反対に、林谷には別の演奏をするための時間がたっぷりと与えられた。ソロ演奏をアルコ弾奏で通した岡本は、演奏の途中で音の動きをとめ、沈黙の書き割りを背景に弦のノイズ・サウンドを出しつづけるという、彼ならではのプレイを最初の演奏にかぎることでふたつのパフォーマンスを区別した。演奏のアプローチそのものが変わったわけではなく、これはひとつの演奏を二回にわけてパフォーマンスしたようなものといえるだろう。この点は森順治も同様で、演奏の冒頭、ビールを飲み干したあとの空缶をサックスのベルに突っこんで咆哮するなど、いつものように音楽の外側から変則的な禁じ手を披露した彼は、椅子のうえに持ち替え楽器のフルートを用意していたが、最初の演奏ではそこまでたどり着かなかった。静かなサックス吹奏から再出発した二度目の演奏でフルートにまでたどり着いた彼は、ようやくにして観客の期待にこたえたのである。

 唇の調子がよく、すばらしい演奏だったと森順治が絶賛したこの日の橋本英樹は、フレーズ回しに緩急の変化をつけていたものの、二度のソロ・パフォーマンスをほぼおなじように演奏した(ように聴こえた)。これはおそらく、急速調で展開する橋本の即興演奏が、息の吹きつけ方や唇の変化という、いってみるならばトランペット・ヴォイスの内声をミクロに細分化してヴァリエーションをつけていくことと無関係ではないように思う。以上の三人は、二度の演奏をそれぞれのやり方でそれぞれの関係に置きながらも、楽器に対する態度を一貫して変えることがなかったため、ふたつの演奏は連続したものとなったが、ギターの林谷祥宏は、スティックで弦をプリペアドし、e-bowを使い、アンプからの出音をオンオフし、小型扇風機を使うなど、ほぼおなじ語法を使いながらも、最初にサウンドの間に沈黙をさしはさむような演奏をし、次に(おそらく最後の演奏ということを意識したのだろう)アート・リンゼイを思わせる荒々しく過激なパフォーマンスによって、サウンドの肌理がつまった演奏をしたので、結果的に、まるで別の演奏をふたつすることになった。これはこの場だけの偶然の出来事というより、他の三人の音楽のあり方との本質的な差異、即興に対する根本的な考え方の相違によるものと思われる。このような林谷が「毒食」に参加していることの意味が、最終回となる次回でどこまで明確になるのか楽しみである。■




※毒食(どくじき):1900(明治33)年2月17日、衆議院で演説した田中正造が、「目に見えない毒」に汚染された水や作物を飲み食いすることをいいあらわしたもの。[フライヤー文面から]


  【関連記事|中空のデッサン】
   「毒食 Dokujiki」(2012-08-30)
   「The Tokyo Improvisers QUARTET@中空のデッサン」(2012-07-15)

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2012年10月1日月曜日

長沢 哲: Fragments vol.12 with zma



長沢 哲: Fragments vol.12
with zma

(三ツ井嘉子+池田陽子)

日時: 2012年9月16日(日)
会場: 東京/江古田「フライング・ティーポット」
(東京都練馬区栄町27-7 榎本ビル B1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 長沢 哲(drums, percussion)
zma|三ツ井嘉子(flute, sounds) 池田陽子(viola)
問合せ: TEL.03-5999-7971(フライング・ティーポット)



♬♬♬



 打楽器奏者の長沢哲が、江古田フライングティーポットで開催しているシリーズ公演「Fragments」も、フルートの三ツ井嘉子とヴィオラの池田陽子からなるユニット “zma” をゲストにした九月のライヴで、記念すべき一周年を迎えた。フクイチの過酷事故をなかったものにしたい政界・経済界の圧力のもと、複雑化の度合いを深める故郷・福島の政治情勢を片目にしながら、網の目のように張りめぐらされた東京のインプロシーンから、新たな即興の地下水脈を探り出して紹介しつつ、同時に共演の機会を持つというネットワーキングの作業を継続している。今回ゲストに迎えられた “zma” は、今年になって正式に結成された即興デュオで、聞くところによると、 “zma” というのは三ツ井が提案した「団地妻」の略称だという。池田が「団地妻」に異を唱えたことで、いまの表記に落ち着いたとのこと。ふたりは人妻でもなければ団地暮らしの経験もないということで、名前の由来を聞けば「ただなんとなく」ということになるが、あらためて考えてみれば、この「団地妻」には、奇妙な生態の動物をカリカチュアしたような印象があって、 “zma” のユニット名も、そうしたセクシャルな男性的視線を逆手にとった一種の誘惑戦略になっているといえるかもしれない。コンサートの構成は、第一部: “zma” 、第二部:長沢哲ソロ、第三部:三ツ井嘉子+池田陽子+長沢哲トリオとなった。

 即興ユニット “zma” の演奏は、フルートとヴィオラというクラシカルな楽器の組合わせによる、じゅうぶんに抽象化された二声のインプロヴィゼーションを中心にしたものだが、それだけではなく、三ツ井が演奏中にサウンド・コラージュの録音を流したり、フルートからリコーダーに持ち替えて演奏(この晩の楽器チェンジはなかった)したりすれば、一方の池田は、ヴィオラに電気的な深いエコーをかけるなどして、それぞれに演奏の単調さを回避するヴァリエーションを工夫している。というか、そもそもの話をすれば、デュオ結成のきっかけになったのは、このようにして録音された生活音や自然音とともに即興演奏したいという動機から、三ツ井が池田に声をかけたということのようだ。デュオ・インプロヴィゼーションのありようは、対話不可能なほどに異質なものがあえて対話の場に居合わせるという、これまで男性的な即興演奏の世界でくりかえされてきたような関係性──すなわち、対決姿勢を示しながら、おたがいの個性を際立たせるといったものではなく、二匹の蝶々が舞うようにして二声の対話をかわしたり、相手のソロを支えるパターンを出したりするなど、共演者との距離を測りながらも、なかよく界隈の散策に出るといった趣きで、なにごとにも気づかいを欠かさない女性ならではのほんわかとしたムードにあふれたものだった。

 アブストラクトなフレーズによる演奏は、ふたりともに抽象絵画のラインやドットを描いていくような趣きなのだが、そのありようには質的な相違があるようである。ひらひらと舞う二匹の蝶が、それぞれのテリトリーを守りながら一枚の絵を描き出しているように、高音域のフルートに対したときの低音域のヴィオラという音域の相違が、サウンドで一枚の絵を描くふたりの演奏に別の性格を与えていること。あるいは、ボケとツッコミという漫才の役割分担に相当するものが、デュオの相性のよさを支えているように感じられること。後者におけるボケ役は三ツ井ということになるのだろうが、これはデュオの対話がそうした性格を持っているというだけでなく、汗でずり落ちてくる黒縁眼鏡を、かろうじて鼻の先に引っかけながら懸命にプレイする姿に、一種のキャラ萌えが起こっているせいでもあるように思われる。相棒である池田陽子が目を閉じながら演奏する涼しげな姿と、それはなんと対照的なことだろう。さらにサウンドの質という点もある。すなわち、池田のヴィオラが、鋭角的で “アヴァンギャルドな” 演奏をすることがあるのにくらべ、三ツ井のフルートが、ときにどこからか音が漏れてしまうような脱力サウンドを響かせることにもよっているはずである。

 長沢哲の打楽ソロについては、これまでにも何度となく触れてきたので、ここであらためて詳述する必要はないだろう。第三部のトリオ演奏は、静謐な長沢ワールドに静かに踏み入っていく “zma” の断片的なサウンドの応酬からスタートした。やがて三ツ井と池田は、ミニマルに変化をつづける長沢のドラミングをバックにソロを交換しはじめ、ときにデュオになったり、いっしょにリフを奏でてドラムソロのパートを作ったりしたが、特に前半において、アンサンブル全体の方向性は三ツ井によってリードされていたように思う。トリオ・インプロヴィゼーションは大きく前半と後半にわかれ、静かなトレモロの打楽で再スタートした後半では、“zma” のふたりがノイズ的なアプローチをとるなど、音楽経験の豊富なところをのぞかせたのにも注目させられた。時間の経過とともに演奏は次第に飽和状態を迎えていく。三者三様に即興演奏が熟していくといったらいいだろうか。問題は着地点だった。何度か沈黙の瞬間が訪れはしたものの、誰もがこれで終わりという意思表示をせず、そのつど演奏は再出発していった。最後の時間帯で、長沢は明確なビートを出すドラミングを持続し、“zma” のふたりがロングトーンで乗ってきたところで一気にテンションをあげる大団円を演出した。様々なアンサンブルのスタイルに通じたトリオの演奏は、聴きごたえじゅうぶんのもので、音楽が一色に染まることの多いジャズの即興セッションなどより、はるかに豊かな世界を作りあげていたと思う。■





  【関連記事|長沢 哲: Fragments】
   「長沢 哲: Fragments of FUKUSHIMA」(2012-08-21)
   「長沢 哲: Fragments vol.9 with 吉本裕美子」(2012-06-25)
   「長沢 哲: Fragments vol.8 with カノミ」(2012-05-31)

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【CD】新井陽子: water mirror



新井陽子 piano solo
『water mirror』
kotoriya kobo|no serial number|CD-R
曲目: 1. twitters (4:27)、2. 1020 (4:42)、3. water flea dance (3:10)
4. water mirror (4:52)、5. hundred of legs (3:11)
6. a day clouds passes (7:53)、7. roarer (10:53)
8. ascendant stars (5:53)、9. magouta (6:15)
10. dawn (2:34)
演奏: 新井陽子(piano)solo
録音: 2009年10月/東京「studio Forte」



♬♬♬



 2009年10月、この年の欧州ツアーに出る直前に収録されたピアニスト新井陽子のソロ演奏集『water mirror』は、どの曲にも絵画的な風景を想わせるタイトルがつけられているが、即興演奏のアルバムではよくあるように、けっして視覚的なイメージを優先した作品集ではなく、耳をピアノ線の響きに密着させながら、波動となった弦の一本一本をからだ全体に巻きつけるようにして演奏していったという点で、サウンド・インプロヴィゼーションと呼んでもいいような、これ以上なくリアルで明瞭な音像を刻みこんだ作品集となっている。ライヴでは多彩なシークエンスをつなげて演奏する新井だが、演奏を短く区切って再構成した本盤は、楽曲ごとのモチーフに破綻がないように配慮したものと思われる。それでも即興演奏がひとつのイメージに収斂していこうとすると、異質な要素をはさみこもうとする衝動がピアニストに起きてくるようなのだが、本盤ではそれが楽曲の世界をさらに大きく広げるように働いている。

 タイトル曲「water mirror」(水鏡)は、本作中ただ一曲プリペアドされたピアノによる演奏で、ストレートなピアノ・サウンド、ミュートされたピアノ線のくぐもった響き、なにかものに触れてノイズを発しながら鳴るピアノ線という三種類の音が、リズミカルなバランスをとりながら豊かなサウンド・ワールドを広げていくという演奏になっている。マイクをピアノの内部に深くさしこんだ録音は、深いエコーがタイトルの喚起する水を連想させるだけでなく、演奏中のピアニストが没入している楽器の鳴りそのものをとらえようとしている。どんな音楽ジャンルのどんな演奏家にあっても、楽器との間には親密な関係が築かれるものだろうが、ときに内面まるごと、全身まるごとを没入する即興演奏にあって、楽器は音楽の源泉そのものであり、その親密度はいっそう深いものになっているのではないだろうか。ピアノとかわす一対一の語らいにおいて、新井陽子は磨きあげた孤独を生きているように思われる。

 響きに密着する耳とともに、形式(形のない響きに形を与えること)に対する彼女の感覚にも鋭いものがある。鋭いというより迷いがないというべきだろうか。最初からすべてをお見通しと感じさせるような。それが感覚におけるリアルで明瞭な音像を、なおいっそう確実なものにしている。ピアノをコントロールする高い技術によって、求める演奏をいともたやすく手に入れることのできる彼女にとって、本盤はCD-Rでリリースされていることが信じられないほど完璧なアルバムであり名盤となっている。しかしながら、もしそれがピアノでないとしたなら、彼女にとっての他者は、いったいどこからやってくるのだろう。逆の方向からいうなら、即興演奏が予測不可能の出来事となるには、そこにまったく別のなにかが必要になるということであり、破壊衝動は、誰にでもない、彼女自身に向けられるだろうことを予測させる。はたしてそのようなことを望むかどうかは、誰にも、たとえ本人にも、わからないことではあろうが。■

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2012年9月30日日曜日

焙煎bar ようこ vol.4: piano soltude



焙煎bar ようこ
第4回:piano solo <piano soltude>

新井陽子

日時: 2012年9月21日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,000(1ドリンク・茶菓子付)
出演: 新井陽子(piano)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 毎回スペシャルゲストを迎え、喫茶茶会記で隔月公演されている新井陽子の「焙煎bar ようこ」シリーズも今回で四回目、第一回は、スピード感のある即興バトルを展開したチェリスト入間川正美とのデュオ、第二回は、太棹三味線の田中悠美子と笙の石川高という、ふたりの和楽器奏者を迎えての異色セッション、そして第三回は、新井が参加している即興グループ “Wormhole” の主宰者である打楽器/エレクトロニクスのマルコス・フェルナンデスを迎えてのデュオと、新井が持っている音楽ネットワークのなかから、これはと思う演奏家に白羽の矢を立てての即興セッションが組まれてきた。ひさしぶりの公演だったという今回のピアノソロは、彼女が10月に短い欧州ツアーを予定しているところから、自分自身のピアノを見つめなおし、同時に活を入れる意味合いがあったのではないかと思われる。前半30分弱、後半20分という短めのパフォーマンスであったが、演奏内容はそのぶん高い集中力が持続するものとなり、いつものように内部奏法に “寄り道” して演奏のスピードにブレーキをかけてしまうこともなく、冗長さを排し、無駄なく切り詰められたシークエンスが次々に連続していくという、凝縮された即興演奏を聴くことができた。

 鍵盤のうえで踊る十指の運動性にしたがってゆく演奏、あるメロディーや音型をつかまえてのパラフレーズ、パストラル(牧歌的)な、あるいはセレーン(静かで穏やか)な楽想を奏でながらの展開と、多彩なシークエンスが連続していった前半に対し、第二部では、フリーな展開の多い新井には珍しく、起承転結のある楽曲を2曲演奏したような趣きで、私には意外な展開だった。特に二曲目などは、かつて(フリーな演奏をしていた時代の)橋本一子や高瀬アキが演奏していた「蟻」という楽曲を思い出させるところがあり、この点でも意外性があった。これは演奏の聴きやすさに配慮したものかもしれないし、あるいは修業時代のどこかで、先行する女性ピアニストたちの演奏を実際に聴いたことがあったのかもしれないが、これまであまり聴く機会のなかった新井の隠れた一面といえるだろう。ゴリゴリのハードなインプロヴィゼーションをする女性ピアニストというのが、おそらく演奏家としての新井の固定したイメージだろうが、彼女にはそうした自分を冷めた目で見るもうひとりの自分がいる。音楽に対して糞真面目にしかなれない自分がいて、そうした自分の剛直さを、どこかではずれていけないものかと願う自分もいるようなのである。前半と後半で驚くほどアプローチを変えたこの晩の演奏のあり方も、そうしたふたりの新井陽子による内面の対話だったように思う。

 何度もおなじ場所を往復しながら演奏を拡大していくスタイル、あるいは、くりかえし自己に回帰しながら、そのつど演奏を拡大していくスタイル、そうした無限運動にもたとえられるような(フリー)ジャズのスタイルではないという意味で、新井陽子の即興は潔いものである。彼女の演奏テクニックをもってすれば、即興演奏のなかで偶然に訪れるひとつひとつのモチーフ断片をいくらでも展開していけるだろうに、彼女はそうした反復する時間が生み出すホットな音楽を回避し、あるシークエンスのただなかで突然足をとめては、それまでの展開を潔く捨てて、まったく別の方角へと歩き出すのである。目の前に次々にあらわれる横町を、鋭角的に折れ曲がっていくようなこうした展開が、1980年代的なパッチワークの演奏にならないのは、ピアニストが演奏の断片性を際立たせようとはしていないこと、また演奏がジャンプしていくタイミングに、演奏者のバイオリズムが重ねあわされていることによるのではないかと思われる。つまりポストモダン音楽の形式主義を超える演奏者の身体性が、確乎としてそこに存在するということであろう。小回りをきかせたこのような演奏の展開が、「音楽革命」という大きな物語を語る、かつてのフリージャズの(戦艦大和のような、男性的な)重厚長大な趣きをうまく相対化しているという意味では、たとえ演奏者が意識していなくても、これは即興のミクロ政治学と呼べるような行為になっていると思う。

 全体を統一する曲想があり、テーマとバリエーションをはっきりと区別することのできる第二部の演奏に関して付言すれば、前半の演奏に変化をもたせるため新井が後半でおこなった選択もまた、音楽の構造というリジッドな枠組みに考察を加えたものだったと思う。インプロヴィゼーションから楽曲構造へと視点が移動してはいるが、しかしそれは演奏そのものに大きな質的変化をもたらすようなものではなかった。どうしてこのような指摘をするのかといえば、20世紀末に世界的な規模でわき起こった “即興のパラダイムシフト” のキーワードだったのが、そのような楽曲構造によってとらえることのできない皮膚感覚であり触覚的なもの、すなわち、構造という深度を欠いたサウンドの表層性だったからである。この表層性は、たとえば、先に「パストラル(牧歌的)な、あるいはセレーン(静かで穏やか)な楽想」と形容したものに、さらに演奏者ならではの特異な色彩感覚が加わったり、聴き手を皮膚感覚のレベルで触発するようなものの出現として感じられるものである。演奏に差異をもたらすサウンドの出どころが、これまでとは違ったレベルにおいて探究されていたといったらいいだろうか。もちろんこれは、誰もがそうしなくては現代的ではないということをいおうとするものではなく、ミクロ政治学の下にはナノテク政治学があるということであり、あくまでも新井陽子の現在位置を測量するために加えている考察に過ぎない。■




 【関連記事|焙煎bar ようこ】
  「焙煎bar ようこ vol.2:跋扈トリオ」(2012-05-24)
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2012年9月19日水曜日

SUZUKI FACTOR




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 これまでの活動によって知られるように、さまざまに発音する電子回路をオリジナルに製作する鈴木學は、回路のコントロール不可能な部分も含め、その全体を(即興)演奏として提示している。サウンドにまでたどり着く過程が、通常の楽器とはまったく異なるため、生理・感情・身体というような回路をたどり、楽器どうしの共演であれば当然のように予想できるインタープレイを踏み外す部分があり、その予測不可能性、音楽に対する関節はずしの効果から、「音楽や即興演奏にとって他者とはなにか」というようなベーシックなテーマを、新たに語りなおす契機を与えてきたといえるだろう。たとえば、コンピュータのサウンドファイルを使っても、おなじように生理・感情・身体といった人間的なるものを迂回した演奏ができるかもしれないが、鈴木學が製作する電子回路は、一方で彼の技術センスを刻印した人造人間性(フランケンシュタイン博士とその怪物の関係)とでもいうべき性格を備えており、非人間的なものでありながら、一種のオートマトンとして、固有の身体性を感じさせるものにもなっている。電子回路のもつこうした回路/楽器としての境界性が、私たちが無意識に引いている音楽/非音楽の境界線を脅かすのである。この意味において、彼が音楽の外からやってきたというのは、正しくもあれば間違ってもいる。

 鈴木の参加した即興アンサンブルのうち、私がこれまでに聴くことのできた今井和雄トリオ、木下和重との「エレクトリカル・パレート」、そして鈴木學・広瀬淳二・池上秀夫トリオなどは、それぞれの関係性のなかで、鈴木の演奏がもつこうした境界性を、オリジナルに位置づける試みとして理解することができる。それぞれの音楽が別のものであることはいうまでもないが、そこに<SUZUKI FACTOR>を設定することで、これまで見えなかった集団即興の側面が露出してくるのではないか。これはそうした作業仮設である。今井和雄がセンターでギターソロを展開するトリオでは、蛍光灯放電を利用して演奏するオプトロンの伊東篤宏ともども、対話不可能なものどうしの対話が試みられていたように思う。これは一種のサウンド多面体(「コラージュ」と呼ぶのは明らかに間違えている)であり、音楽キュビズムのようなものといえるだろう。たびかさなる演奏が固定的なイメージを呼びこんでも、ふたつの楽器ではないものが音を出しているという環境、換言すれば、ひとつの場所への複数の回路接続がもたらす特殊性が、トリオ演奏をギターソロに統合させることのないアンサンブルを実現している。これは「解剖台の上のミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい」という、ロートレアモンの詩文で知られるシュルレアリズムの理念を淵源とするような異質性のとらえかたである。

 大崎/戸越銀座 l-e を拠点にしばらく活動した「エレクトリカル・パレート」において、ヴァイオリン奏者の木下和重は、みずからエレクトロニクス回路を製作し、鈴木學の回路に接続した。もちろん実際にシールドをつなげて回路を連結したわけではなく、どちらがどちらと見まがうようなサウンド・インタープレイによって、結果的に回路を増殖したという意味である。木下にとって、この増殖回路における固有性は、多くの場合、サウンド・トリガーとして使用されたヴァイオリン演奏によってもたらされたように思う。サウンド多面体としての今井和雄トリオの演奏が、異質性を最大にするような楽器/非楽器の拮抗と、それをリアライズする演奏によって成立していたのとは対照的に、木下のヴァイオリン演奏は、回路のなかに残された楽器的なるものの痕跡・残骸として感じられるようなものだった。この意味でいうなら、「エレクトリカル・パレート」における鈴木學の存在は、木下にとって亡霊的なるものを憑依させるための対象だったのではないだろうか。増殖するエレクトロニクス・サウンドのなかにあって、この楽器の痕跡が感覚可能になるような身体性を、鈴木學のオートマトン=電子回路は備えているということである。ちなみに「エレクトリカル・パレート」は、主宰者をチェンジした「イグノラムス・イグノラビムス(ラテン語で「我々は知ることができない、また永久に知ることはできないであろう」の意味)ミュージック」として継続されている。

 コントラバス奏者の池上秀夫が声かけをして集まった鈴木學・広瀬淳二・池上秀夫の異色トリオについては、すでに次のように記した。「鈴木學の演奏は、演奏のように見える操作であり(中略)あえていうならば『水道の蛇口を開け閉めするような』ものである。もちろんそれは音楽的ではない、ということではない。重要なことは、私たちの耳に出来事が生じるかどうかということだからだ。これとは逆に、池上秀夫は、ノイズ演奏をしているときでも表現的である。おそらく鈴木と池上の間にはいまだ通路がない状態だろう。」先に記したテクストのなかで、私はここに今井和雄トリオとの構造的な類似性を読みとっているが、その後おこなわれたセッション(8月17日)では、楽器の異質性が担保できなくなるほどポリグロット状態(あるいは即興のパンイディオム化)が進行することとなった。通常の即興演奏ならば、むしろあたりまえの生理に属することだろうが、以上で見てきた鈴木學の固有性に即してみるとき、これが<SUZUKI FACTOR>の消去といってもいいような出来事であることがわかるだろう。おそらく<SUZUKI FACTOR>の使用には、鈴木學の存在や電子回路のありようをだいなしにしてしまうことのない、音楽構造にかかわるなにがしかのコンセプトが求められるのかもしれない。これは従来通りの即興セッションの枠組みで、演奏回数だけ重ねてもけっして出現することのないものである。本トリオにおける鈴木學の電子回路は、いまのところパンイディオム化の一端を担う楽器として扱われている。それが即興演奏にとって創造的な環境となるかどうかがキーポイントになるだろう。■



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