2012年10月6日土曜日

木村 由 with ノブナガケン: a shadow



a shadow
木村 由 with ノブナガケン
日時: 2012年10月2日(火)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「イエロービジョン」
(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-2-2 阿佐谷北2丁目ビル B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+drink order
予約・問合せ: TEL.03-6794-8814(Yellow Vision)

出演
第一部:a shadow
木村 由(dance) ノブナガケン(voice, percussion)

第二部:無何有の郷
波那本孝一(dance)



♬♬♬



 木村由のちゃぶ台ダンス「夏至」を、621日の夏至の日に経堂のギャラリー街路樹” で見てから、直観的なひらめきをたよりに、スピード感をもって次のステージを構想する彼女のパフォーマンスを、時間の許すかぎり追ってきた。ひとつには、イメージを重んじるダンサーにとって、もう一枚の皮膚ともいえる衣装などは準備するものの、パフォーマンスには、できるだけ徒手空拳の状態で臨もうとする即興演奏家たちとのセッションがある。もうひとつには、ちゃぶ台ダンスはもちろんのこと、ダンサーのなかではかなりの下準備をして公演に臨むタイプという側面が出たと思われる、「真砂ノ触角」「並行四辺系」などのテーマ性を持った作品群がある。いずれにしても、ひとつの身体がひとつの場所に立つのであるから、ふたつの系譜は確然と区別されているわけではないだろうが、だからといっておなじともいえないもので、演者の心を忖度して言うならば、そこには共演者(サウンドといってもいい)との出会い方の相違というものがあるように思われる。テーマを発見し、あるいは新しくテーマを作り、演奏家からやってくるサウンドを、こちら側の身体的な衝動とリンクさせることができた段階で反復が可能になるというような。たぶんそれを、見かけは似たような身体語法を使っていても、身の向きあい方が根本的に異なったパフォーマンスということができるように思う。

 波那本孝一のダンスの現在を見るために企画された「ダンス2本」で、木村由は打楽器のノブナガケンと共演した。この組合せは、黒のワンピースという衣装も違えば、深紅の草履も履かれなかったものの、おそらくは木村のかぶった小面が、絶大の魔術的効果をもたらすためだろう、井の頭公園にかかる七井橋のうえでおこなわれた橋上ライヴ「橋月」(727日)の記憶を鮮烈に呼び起こすものだった。夢幻能のようだった「橋月」は、橋を渡る人々の間を縫いながらパフォーマンスするゲリラ的なライヴだったため、演奏者たちが出すサウンドは、環境に拡散して雑踏や公園の暗闇のなかに沈みこみ、少しでも油断すると聴こえなくなってしまうというようなものだった。いまにして思えば、演奏者たちは、自分の表現のために音を出すというより、音をなかだちにして環境に身体を開こうとしていたのだと思う。「東京創造芸術祭 アジール~真夏の夜の即興祭」(731日~83日)のスタッフとしてふたりは顔をあわせ、ここでも共演をしている。その意味でいうなら、今回の公演は、こうしたふたりの交流を引き継ぐ意味合いを持っている。私がこれまでに聴くことのできた木村の共演者は、大正琴の竹田賢一、ピアノの照内央晴、ギターの吉本裕美子、そしてチェロの入間川正美といった人々だが、そのなかにあってノブナガケンは異彩を放っている。それは彼の演奏が、時間を構成するものではなく、環境に音を置いていくインスタレーション的なあり方をしていることと深く関係するように思われる。

 トレードマークになったフレームドラムやラトル類、鉦などの小物を用意してステージ下手に陣取ったノブナガケンは、パフォーマンスの冒頭、共演者のいない舞台にひとり座しながら演奏をすすめる。マイクなしのアコースティックな環境。聴こえるか聴こえないかの音量で、S音を強調したかすかなヴォイスが断続的に響く。リズムを出すことのない彼のフレームドラムやラトル類のように、意味のない、あらゆる感情を欠いたサウンドは、それ自体が白紙であること、空白であることによって、なにかの訪れを迎えるための「なにもない空間」を構成する。美術用語であるインスタレーションは、それ自体が形式を持ったジャンルのことであり、結局のところ、作品を見せることを目的に空間を開くことを意味しているが、ノブナガケンもまた、一種の儀式的なふるまいによってひとつの(なにものかの出現を迎える)場を開く。重要なのは、そのようにして開かれた場に、彼自身は姿をあらわさないということだろう。足もとのラトルを裸足の足指でこねて音を出し、目を閉じたまま、意味を欠いた浄瑠璃ふうの声調を出しはじめる。やがて満員の客席をかきわけて、小面の能面をつけた木村が、この空間に静かな足どりで侵入してくる。ステージに上がる直前で激しく手を打ちあわせると、一瞬にして時間が分節され、場面が転換する。フレームドラムで音を出しはじめるノブナガと、盆踊りを踊るように、遊び女のように、高く手踊りしながら舞台の上手に入る木村。

 ステージ上手に立った木村がゆっくりと観客席に面をむけると、ノブナガはいままですわっていた椅子から立ちあがって楽器を打ちはじめる。緊張感のみなぎる異様な雰囲気のなかで、小面の女が、奇怪でもあれば誘惑的でもあるようなしぐさ、私たちの常識となっている動作の意味を錯乱させるようなしぐさを次々にくりひろげていくパフォーマンスは、すでにそれがダンスであることを忘れさせるほどに亡霊的なものを(その身体から)呼び出しており、一部始終が木村の独壇場となっている。音楽は、特にそれが即興演奏の場合、こうした身体表現とずれていくのが普通だと思うが、ノブナガケンは木村の動作を読みきり、能面にさえぎられた演者の視界が共演者とのアイコンタクトを妨げていると思えば、パフォーマンスする彼女の目前の床にフレームドラムを投げ出しながら演奏するなどして、「a shadow」を破綻のないパフォーマンスにしあげた。これはノブナガがプロデューサーの役割まで果たしたことを意味するだろう。即興演奏とダンス・パフォーマンスの共演は、時間と空間という別々の領域をスパークさせる楕円世界を立ちあげるところに、境界に立つ危機的瞬間の創造性を引き出してくるのであるが、それが「a shadow」では、破綻のない、境界線を消去したパフォーマンスとなったのである。こういう共演スタイルもあると理解すべきなのだろうか。結果的に、ノブナガケンの演奏は、木村由が呼び出そうとした亡霊的なるものを封印し、その奇怪な動作にサウンドで意味を与え、観客にわかりやすく解説することになった。こうしたなりゆきは、この日、木村由の「a shadow」としてふるまったノブナガケンの、演奏家としての資質に負うところが大きかったように思われる。



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