2012年10月9日火曜日

森重靖宗(mori-shige)の活動再開コンサート




森重靖宗 cello(+vocal)solo
morishige yasumune cello (+ vocal) solo
日時: 2012年10月4日(木)
会場: 東京/渋谷「公園通りクラシックス」
(東京都渋谷区宇田川町19-5 東京山手教会B1)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,500、当日: ¥3,000
出演: 森重靖宗(cello, vocal)
予約・問合せ: TEL.03-3464-2701(クラシックス)

【演奏曲目】
※原曲にタイトルがないため、以下は目安として臨時に付したもの。
1st set
「愚か者の唄」
「ある日のコンビニの風景」
「あなたがほしい」
「恥ずかしいこと」
「きみが私にくれた饅頭がおいしかった」

2nd set
「性欲と土下座」
「消し忘れたテレビと熟したトマトとまっ白いシーツ」
「自殺について」



♬♬♬




 家族に介護問題が発生したことから、昨年の10月、いまからほぼ一年前に、いったん演奏活動を休止したチェロ奏者の mori-shige が、活動再開を宣言するにあたって、ミュージシャンネームを本名の「森重靖宗」に改め、記念のソロコンサートを渋谷の公園通りクラシックスで開催した。記念コンサートには、これまで即興演奏の活動に使ってきた mori-shige のイメージを一新させる趣向があった。それは即興演奏をする以前に取り組んでいた自作曲の弾き語りを復活させ、チェロの即興演奏に接続するというものである。思いかえせば、以前にギターやピアノでおこなっていた弾き語りが、エロスバイオレンスをテーマにしていたと本人から聞いたことがあったし、即興するときの楽器も、チェロばかりではなく、ときにピアノやエレキベースだったりした。そしてそのどれもが格をはずれていた。もっと正確にいうなら、mori-shige にあっては、型にはまった音楽的なルールを破壊するために即興演奏が選択されたり、即興演奏をするために技術を磨いているというものではなく、感性が特異であるため、ごく自然にすべての格がはずれてしまうだけであり、彼の求める完全自由を保証してくれるジャンルを周囲に探したとき、たまたま近くに「即興演奏」があったということのようなのである。そうしたところから、mori-shige の演奏には、いつも無知の知とでもいうべきものがはらまれていた。

 周知のように、mori-shige は本名の森重靖宗で写真集『photographs』(パワーショベル、2010年)を刊行しているが、彼が写真家として地道な活動をしてきたということではなく、これも偶然の機会が重なって実現した出版だという。作品は森重らしさにあふれたものだが、本そのものは、写真界の孤島のようにしてある。こうした映像とのかかわりを加えてみるなら、彼の表現活動がもっている本質は、本来的に音楽の領域における即興演奏に局限されるようなものではなく、それもまた多面的な活動スタイルの一部分を切り出したものにしかすぎないことがわかるだろう。チェロ奏者として、インプロヴァイザーとして、この10年間に特異な演奏スタイルを築きあげた mori-shige だが、それにもかかわらず、彼はいつどこにいってしまうかわからない人のような不安定さを、全身から発散しつづけていたように思う。あるいは、逆にいって、そのように多面的な存在であるからこそ、彼はあの特異な演奏スタイルを貫くことができたのかもしれない。mori-shige が求めてきた完全な自由とは、完全即興のようなもののことではなく、すべての表現活動において、快感や内的な衝動が裸のまま、無垢のまま、一粒も損なわれることなく全開されることのようである。これは即興演奏がともすれば陥りがちなエゴイズムとは別のもので、むしろエピキュリアンの美学に属するものかもしれない。

 公園通りクラシックスで披露された楽曲は、新作と旧作をとりまぜて構成したものだった。どの曲にもタイトルがなく、豊かなノイズ成分を生かしたチェロ演奏のように、深々とした情感をたたえる声によって歌われた歌は、伝統的な意味での「歌謡」というより、日々の暮らしを坦々と述懐していく語り芸に感じられた。森重本人が告白していたのだが、これはまさに、写真集『photographs』で示されたような世界に対する態度である。かつてピアノの弾き語りをしていたときは、もっと自由に身体を動かしながら歌っていたというが、今回新たに採用したチェロでの弾き語りのスタイルは、私にチェコのイヴァ・ビトヴァを連想させた。森重靖宗の弾き語りも、ビトヴァに負けず劣らず魅力的で、チェロの弦楽サウンドと森重の声が想像以上にフィットしていたのは驚きだった。森重靖宗という名前の建築物があったとして、建物を構成している部分部分に注目すると、そのどれもが少しずつ格をはずしていて、はたしてこれで建物が建つのだろうかと心配になるのだが、その少しいびつな部分がひとつ、またひとつと寄せ集めると、見たこともないような不思議な建築物が出現してくるという、そんな具合なのである。これはおそらく、森重美学というような体系的なものではなく、前述したような、快感や衝動を無垢のまま全開にしようとする態度、あるいは、一見なにもないような日常生活を凝視しつづける態度など、いくつかのベーシックな態度を貫くことで、少しずつ形作られていったものと思われる。

 アンダーグラウンドで息づいている歌の世界に触れるたびにいつも感じるのは、世の中にこんな歌がありうるのだという驚きである。それは第一に、歌われる歌詞の内容に対する驚きであり、第二に、日常的な場面を切りとるアングルの新鮮さに対する驚きである。この驚きは、そんなふうにいわれるまでは気づくことすらなかった私たちの知らない世界が、そこに出現していることからやってくるものだろう。すべてに破格な森重の場合、それをはたしてエロスバイオレンスの世界と呼べるのだろうか。作品をすべて聴いたわけではないが、彼の歌を特徴づける最大のものは、おそらくこの世界の外側を歌わないということではないかと思われる。言いかえるなら、すべてのラブソングが歌っているような夢や希望や未来を歌わない。どこまでもみすぼらしいもので埋まっている坦々としたこの世界を、静かな、すんだ視線でまなざしながら、その世界を徹底的に、かつ精密に描き出そうとすること。歌のなかにくりかえしあらわれる太宰治ふうの自己処罰の念は、裏返された自己肯定とも受け取れるものだが、おそらくはもう少し進んで、そのようにしてどこまでも地面をはっていくことしかできない視線に対してのエクスキューズなのではないだろうか。森重の歌うエロスバイオレンスは、女性歌手が女の性について赤裸々に歌うようになったいまの時代には、むしろ漫画チックなものに見える。もしそれがなにかをいわなければならないとしたら、未来を語ることのできない恋愛の不可能性というのが適切かもしれない。



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