ノブナガケン
NOBUNAGA Ken
Improvised Performance Solo
日時: 2012年10月29日(月)
会場: 東京/阿佐ヶ谷「ヴィオロン」
(東京都杉並区阿佐谷北2-9-5)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥1,000(飲物付)
出演: ノブナガケン(bamboos, frame drum, rattles, cymbals)
問合せ: TEL.03-3336-6414(ヴィオロン)
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少し前、阿佐ヶ谷のイエロービジョンで開かれた「a shadow」で、ダンサーの木村由と共演したノブナガケンのパフォーマンスについて、次のように書いたことがある。「聴こえるか聴こえないかの音量で、S音を強調したかすかなヴォイス」は、「リズムを出すことのない彼のフレームドラムやラトル類のように、意味のない、あらゆる感情を欠いたサウンド」で、「それ自体が白紙であること、空白であることによって、なにかの訪れを迎えるための『なにもない空間』を構成する。」ノブナガケンの演奏はすぐれてインスタレーション的なものだが、それだけにとどまらず、さらに「一種の儀式的なふるまいによって、ひとつの(なにものかの出現を迎える)場を開く。重要なのは、そのようにして開かれた場に、彼自身は姿をあらわさないということだろう。」こうしたノブナガケンの身の置きようは、徹底して聴く人、あるいは出来事の解釈者として、彼を様々なパフォーマンスにおける理想的な伴走者(伴奏者)にしているが、もし彼のしていることが、サウンドアートの類いではなく即興演奏だとしたら、行為のなかで<私>のありどころを表明することが、きっとどこかでなされているはずである。そんなおり、阿佐ヶ谷ヴィオロンでひさしぶりのソロ公演があると聞かされた。
「即興を基本としつつも構成のある作品的なものをやる」と予告にあった「構成」とは、あらかじめ決められた楽器の種類を、即興の枠組みにするというものだった。おなじ「コンポジション」でも、音符を譜面にならべるような「作曲」ではなく、楽器の配置をもって演奏にしばりをかけるのである。誰彼の共演者ではなく、ギターという楽器が自分の音楽的な衝動の源泉であるとデレク・ベイリーも発言したことがあり、こうした考えに立った即興演奏はけっして珍しいものではない。また、楽器からオリジナルな声を引き出す作業を重視しているタイプの演奏家は日本に多く、方法やスタイルは違っても、風巻隆や灰野敬二なども、リズムの支配から打楽器を解放するような即興演奏をしている。(1)30cmほどの二本の竹筒[15分]、(2)フレームドラム[15分]、(3)束になったラトルと鈴、そして声[12分]、(4)種類の異なる三枚のシンバル(床置き)[15分]というのが、ノブナガケンのソロにおける楽器構成だった。演奏者の背後には背もたれつきのスツールが用意され、フレームドラム以外の演奏は、すべて座ったままでおこなわれた。特に異例だったのが最後の演奏で、床に敷いた黒い風呂敷のうえに三枚のシンバルをならべたノブナガは、椅子に腰かけたまま前に半身を乗り出し、とても演奏しやすいとはいえない姿勢のまま、スティックやマレットを使って演奏していた。
二本の竹筒を打ちあわせ、擦りあわせする演奏はこれまで見たことがなかったが、あとで確認すると、今回が初めての演奏とのこと。不均衡なリズムにはテンポもビートもなく、思いがけず出る音をコントロールしながら、竹筒を打ちあわせる場所を少しずつ変えていき、サウンドのバラエティを探っていくというような演奏だった。気持ちを整えるためか、演奏の最初に、彼がよく使っているS音のヴォイスをかすかに響かせていた。二番目はノブナガケンのトレードマークになっているフレームドラムの演奏。座ったままでスタートしたが、中間部分のほとんどは立って演奏された。太鼓面を手のひらで擦る音と指先でたたく音とをランダムにアンサンブルしながらの演奏。ここまででライヴの前半が終了、なにがしかのスタイルがある音楽を演奏するのでもなく、楽器を演奏する演奏者みずからが示されるのでもない、楽器の声を聴くためのパフォーマンスがつづいていた。後半に入って最初のセットは、木の実を束ねたラトルを膝のうえにおいて両手でもみながら、あるいは裸足で足もとの鈴を鳴らしながら、うめき声のようにも、また読経のようにも聴こえるヴォイスをするというものだった。このセットが他のものより音楽的に聴こえたのは、おそらくヴォイスの使い方が違っていたからで、この演奏でだけ、荒い息づかいをともなって反復される呼吸のバイオリズムが、ノブナガの膝のうえでカチャカチャと鳴るラトル類の断片的なサウンドを下支えしていた。
最後は、床に置かれた三枚のシンバルを椅子に腰かけたまま打楽するパフォーマンス。これもまた、微妙な音色の違いをもった金属の響きを、ランダムにアンサンブルするものだった。前述したように、即興演奏を制限するコンポジションは、演奏される楽器の順序によって構成された。またパフォーマンスする身体に対しては、椅子に座る・座らないを含め、用意された楽器の構造が制限を与えていたが、ひとつひとつのセットの内側に入ってしまうと、パフォーマンスに制限を加える要素はなにもない(ように見える)。そのために聴き手は、鳴っている楽器そのものと対面するような錯覚を覚える。「開かれた場に、彼自身は姿をあらわさない」という印象は、このようにしてもたらされるのではないかと思う。風巻隆や灰野敬二の場合、サウンドに対するパフォーマーの欲求はより鮮明だが、かたやノブナガケンの演奏は、もっとずっと禁欲的なあり方をしている。パフォーマーの<私>というものを、いくつもの輪の重なりで表現するとしたら、ノブナガケンがノブナガケンであるゆえんは、彼の即興演奏が、もっとも内周にある輪を一周するマイクロ・ミュージックである点にあると思う。その意味では、ノブナガと対極にいる灰野敬二などは、もっとも外周にある輪を一周する演奏家といえるだろう。そうした真逆のありようにもかかわらず、即興演奏を標榜する両者のパフォーマンスにおいて、リズムに対する態度や、サウンドそのものを立ちあがらせようとする姿勢には、驚くほど似通ったところがある。このあたりに彼らの演奏の謎を解く鍵があるかもしれない。■
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「木村 由 with ノブナガケン: a shadow」(2012-10-06)
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「Bears' Factory Annex vol.5」(2012-02-27)
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