木村由無音独舞公演
ひっそりかん
日時: 2012年10月14日(日)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アートホール」
5F展示ギャラリー
(東京都世田谷区松原2-43-11)
出演: 木村由(dance)
開場: 2:30p.m.,開演: 3:00p.m.
料金: ¥1,000
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即興演奏がサウンドの容れ物になる場所や環境に大きく左右されるのとおなじように、作品を作りあげるのではなく、身体をその場に投げ出すという即興性の高いダンスをするときのパフォーマーにとって、公演場所は重要な意味をもっている。それが出来事の半分を決定してしまうといってもいいほどだ。このところ演奏家との共同作業や即興セッションをしているダンサーの木村由が、明大前キッド・アイラック・アートホールの屋上に乗っている展示ギャラリーで、無音独舞公演「ひっそりかん」を開催した。誰がつけたのか、「無音独舞公演」というネーミングは、今年キッドで誕生日コンサートを再開した竹田賢一の「大正琴即興独弾」を連想させる。「独弾」と「独舞」。場所がおなじキッドだから、ということも理由になっているだろうが、木村は実際に今年の大正琴即興独弾にゲスト参加しており、おそらくはそのとき、ソロをする竹田の姿に強く感じるところがあったのだろう。とはいえ、木村由の無音独舞公演は、もちろんこれが初めてのことではない。彼女の公演歴をひもとけば、ダンス白州の水の舞台(2005年)や大倉山のちゃぶ台ダンス(2006年、2007年)など、演奏者がいない、音がないというよりも、自然のノイズ音にあふれる環境のなかでパフォーマンスした例はいくつも見つかる。
サッシの扉から自然光がふんだんにふりそそぐキッドの最上階は、どうしても照明が必要になる屋内会場と違って、環境に開かれた性格をもっていた。エレベーターは四階までしか届かず、そこから屋上にある展示ギャラリーには、徒歩で外づけのコンクリート階段を登っていかなくてはならない。会場の外にあるバルコニーからは、眼下に井の頭線の明大前駅へとのびる街路を見渡すことができる。街路をはさんだ反対側には、力蔵ビルタワーパーキングの無趣味な壁が、見晴らしをさえぎっている。小雨模様の当日は、雨にふられながら展示ギャラリーに入るなど、観客もまた、環境に対する身体感覚を強く喚起される具合であった。照明の切られた会場は、しっかりと閉められたサッシの扉から入る淡い自然光に満たされ、ステージの下手側からダンサーにやってくる光線は、上手側に深い影を投げかける。木村の場合、ライトが入ったいつものダンス公演でも、壁にできる影は重要な役割を果たしているが、彼女をフェルメールの絵に描かれた女たちのように見せていた自然光の影には、それ以上に重要な意味があったと思う。というのも、音もない、ライティングもない、能面もない、ちゃぶ台や昭和モードあふれる衣装もないというように、イメージをふくらませるためにつかまることのできるようなものをすべて排してのぞんだステージは、この自然光によって、左右非対称の意味場を形成したからである。むしろこのような光に満ちた場を全身で感じるため、あるいは観客に全身で感じさせるため、できるかぎりのものが削ぎ落されたかのような趣きがあった。
少し言葉を足せば、「左右非対称の意味場」とは、自然光が作る影の存在によって、上手と下手が、あるいはダンサーの右手と左手が、バランスを崩し、左右対称の構造を失うということである。身体が上手を向くとき、彼女は影を胸元に抱えることになり、身体が光のやってくる下手を向くとき、影は彼女の背後に長く伸びることになる。窓のないコーナーの最奥部に立てば、影は彼女の全身を包み、床に座れば下半身を水のようにおおいつくす。こうした影のありようが、木村ならではの身ぶりに終始まとわりつくことで、反復のない、変わりつづけるからだの表情が形作られていく。人間の身体構造に従って、左右、上下、前後をインデックスしていった木村のパフォーマンスは、観客の視線に助けられながら、彼女自身の身体とたったひとりで向きあい、そのベーシックなありようをひとつひとつ確かめていくというような質素なものだった。以前に述べたことがあるが、確認すれば、ここでいう「インデックス」とは、「索引をつける」という辞書的意味ではなく、広義において、ダンスがまるで索引のようにそれ自身ではない何事かを指し示すことをいうものである。そのような身体の喚起力が、ある場合には、能面とともに亡霊的なるものを呼び出し、ある場合には、観客がそこで実際に目にしている窓や扉を、ここではない別の世界へと接続するのではないかと思われる。木村が私たちに見せるものは、自己表現しようとする身体がさまざまなシステムや記号をまといたがるのとは、根本的に別のありようをした身体のさまといえるだろう。
蔵前のギャラリーキッサを会場にした公演「並行四辺系」でも、木村は窓を重要な要素としてダンスにとりこんでいた。<窓辺に立つ女>はパフォーマンスの最初と最後に登場し、暗闇に包まれた窓外を見つめることで、<いま・ここ>の外部にあるなにかをインデックスしていた。「ひっそりかん」の冒頭では、イスラエルの嘆きの壁に向かう人々のような壁に向かう女が登場したが、最後の瞬間に<窓辺に立つ女>が出現した。その直前、サッシの扉にそっと触れるダンサーは、冷気で冷たくなったガラスに手形を残しながら、簡単に触れられる窓そのものではなく、けっして触れることのできない光に触れようとしたように思う。この場をあらしめている光は、天上からふりそそぐ絶対的なものであり、けっしてこちらから触れることができない。それはただ向かうこと=インデックスすることができるだけのものなのである。宗教的なセンスをもった観客なら、サッシの扉は、そのまま宗教画の描かれたステンドグラスに感じられたことだろう。しかしながら、その直後に出現した<窓辺に立つ女>は、「並行四辺系」のケースとは異なり、自然光を乱反射して光の平面を作っていた磨りガラスの扉を開け放ったのである。扉の外には、どんよりとした雨天の空と、「危険ですのでこの上に物を置かないで下さい」という張り紙のあるテラス、向かいにある立体駐車場の壁が見えている。木村は雨を落とす天を仰ぎ、窓際に腰をおろすと、そのまま倒れこむ。ぶらぶらとする脚。やがて寝たままの姿勢でテラスに抜け出ると、そのまま扉を閉めてパフォーマンスは終了した。彼女の身体がインデックスしていた扉の外にはなにもない。あるいは、なにもないことさえ、彼女の身体はインデックスしようとした。触れようとした光もまた、無限の彼方に遠ざかってしまう。<いま・ここ>の外部とは、木村由の身体が喚起する想像力の形なのである。■
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