2013年9月30日月曜日

田山メイ子舞踏ダンス公演: 情熱ノ花


田山メイ子舞踏ダンス公演
情熱ノ花
アクノ花アカイ花
日時: 2013年9月28日(土)「アクノ花」
日時: 2013年9月29日(日)「アカイ花」
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
開場: 5:30p.m.,開演: 6:00p.m.
料金/1日券: ¥2,000、2日券: ¥3,000
演出・出演: 田山メイ子(dance)
照明: 神山貞次郎 音響: 太田久進
宣伝美術・写真: GMC
協力: 岡田隆明、縫部憲治、木村 由



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 田山メイ子の舞踏ダンス公演「情熱ノ花」が、「アクノ花」「アカイ花」と、それぞれにサブタイトルのついた2デイズ公演としておこなわれた。事前に告知されていた、「アカイ花」への田村泰二郎の友情出演がとりやめになったところから、結果的には、ふたつの対照的なソロ・パフォーマンスがならぶこととなった。場面を絞りこみ、身ぶりを絞りこみする集中した演技が、禁欲的にも感じられた「アクノ花」と、往年の歌謡曲を場面構成に使い、田山メイ子、歌謡曲を踊るというコピーをつけたくなるような遊び心を発揮した「アカイ花」、そのどちらにも共通していたのは、マネキン人形のように衣装を替え、演劇的に設定されたある登場人物をステージに立たせ、観客になにかしらの物語を想像させるイメージ作りをしながら場面をつなげていく手法と、一見それとは対照的に、日常的な身ぶりを文脈逸脱的に引用し、意味を欠いているという意味では「貧しい」といえるような身ぶりに変質させた反復するダンスの結合だったように思う。この異質なものの結合は、たとえば、歌謡曲の通俗的なイメージを裏切るダンサーの身体として出現し、日常的な場面設定のなかから、シュールで異様な感覚が生み出されてくる。

 ある人物が出現しているという点から見ると、初日の「アクノ花」は二場からなり、衣装替えに入る少し前の時間帯に、赤いリボンを首に巻きつけ舌をペロペロ出す場面があった。この顔の演技は、印象的ではあるものの、いまではベーシックな舞踏の技法(の引用)といえるものである。ダンスのなかで執拗に反復される日常的な身ぶりは、潜在的な身体を立ちあげ、反復をもって、日常ならざるものへの扉を開くものだったが、この顔の演技は、もっとダイレクトな形で、ステージに非日常性を持ちこむ。同様の顔の演技は、二日目にもあらわれた。「アクノ花」の最初の場面は、左膝に大きな破れ目のある古いジーパンにタンクトップの上着を着た田山が、左足に長く赤いテープを巻きつけて片足立ちするダンスだった。上手に座った姿勢から立ちあがり、壁に身体をもたせかけながら、下手に向かってゆっくりと進んでいく。右足にかかる負荷の増大が身体的なドラマになっている。暗転後は、赤い照明をバックに黒いドレスでつま先立ちして踊る、バレエ人形のようなコケットリーなダンスが登場。ともに「子供時代はバレエ少女、青春期はサヨク少女」という田山自身の経歴から、ふたりの人物をピックアップする構成らしかった。強調される赤と黒は、田山のなかにある色であるとともに、二日目の「アカイ花」にも通じている。

 二日目の「アカイ花」は、タイトルが暗示するように、つげ義春の世界に原イメージを得ている。「北帰行」「雪が降る」「骨まで愛して」「時の過ぎゆくままに」「圭子の夢は夜ひらく」「creep」(これだけレディオヘッド)などの曲を、ある登場人物のいるシチュエーションを設定して踊るというもの。最後の舞台挨拶では、藤圭子を意識してだろう、宇多田ヒカルの「First Love」が流され、歌謡曲の合間には、音響をつとめた太田久進の判断で、環境音や細田茂美の「Beyond The Sea」がはさみこまれた。これらが表地/裏地になることで、サウンド構成には、曲を流すだけの単調さを回避する自由闊達さがもたらされていた。「アクノ花」でのダンスが禁欲的だったのに対して、こちらには通俗的なイメージの豊かさがあり、私たちがよく知る歌の風景と、それを非日常化する身体を対応させる遊び心にあふれたものだった。イメージと身体をめぐる田山のダンスの方法は、二日目の「アカイ花」で、さらに効果的に機能したように思う。特に印象的だったのは、「圭子の夢は夜ひらく」にあらわれた赤い花柄のパンツをはいた黒い犬(のように見える、手足を床につけた黒いバレエ衣装でのダンス)の回転で、この人物といえない人物の出現には、シュールという以上に異様な感覚があらわれ、歌手の不幸な死という不条理を、見るものにあらためて痛感させるものになっていたと思う。

 田山メイ子の舞踏は、とどまることのない、新たな身ぶりの発見と発展のうえに形作られていくというものではなく、「アカイ花」でつげ義春の世界を参照したように、誰もがとっくに忘れてしまった(はずの)タイムカプセルを開封して、ある時代が持つことになった感覚や感情を、見るものにくりかえし思い出させ、感覚しなおさせる、生活再発見的なものとしてあるように思われた。これはおそらく、ダンサーが意識していると否とにかかわらず、ある種の舞踏観の反映なのであろう。たとえば、合田成男が土方巽の追悼に際して記した「舞踏は舞踏する肉体に生活の実体が宿っておれば、小さくとも成立する」というような言葉は、薄暗い感情の襞を一枚一枚数えあげていくようなつげ義春の世界に、無理なく寄り添わせることができると同時に、日常的な身ぶりを、別の光のもとで見ることを可能ならしめるものでもある。田山の場合、それは生活に埋没している感情を、まるごと救い出そうとするような(文学的)行為=ダンス=舞踏としてではなく、日常的な意味を剥奪された異様な身ぶりとともに、異化的に提示される。そのような身体だからこそ、現在性を巻きこむことのできるようなダンスが踊られているのである。





 ※初日の写真は、小野塚誠さんからご提供いただいたものです。
   ご厚意に感謝いたします。

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2013年9月23日月曜日

根耒裕子+森重靖宗@喫茶茶会記



根耒裕子森重靖宗
異文化交流ナイト FINAL5days !!
日時: 2013年9月22日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場時間: 6:00p.m.~11:30p.m.
料金/予約: ¥2,500、当日: ¥3,000(1飲物・軽食付)
出演: 根耒裕子(舞踏)+森重靖宗(cello)、千葉広樹(contrabass)
表現、カール・ストーン(electronics)、HIMIKO倭人伝
Sound Director: Kyosuke Terada
キュレーター・MC: 芦刈 純
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 新宿大京町にある喫茶茶会記は、ユニークな数々の公演で異彩を放つカフェバーとなっているが、マスター福地史人のブッキングの他にも、副店長を務める芦刈純がキュレーターとなって、福地路線とはひと味違った人脈と雰囲気を持つシリーズ「異文化交流ナイト」が開催されてきた。10月に主催者の芦刈が期間を定めない海外行脚に旅立つため、シリーズがいったん休止になることから、芦刈の離日直前、特別にファイナル5デイズ公演が企画された。その四日目のプログラムのトップを飾ったのが、四谷インプロのメンバーである舞踏の根耒裕子と、チェロ演奏にねばりつくような色彩感覚をもたらす森重靖宗の即興セッションである。数年前、ふたりはより人数の多いライヴで共演しているが、デュオはこの日が最初とのこと。芦刈ブッキングの功績である。舞踏のイムレ・トールマンとの活動にはじまり、亞弥、可世木祐子、木村由など、これまでに個性的なダンサーたちと一頭地を抜くパフォーマンスを見せてきた森重が、その経験の厚みをもって、古川あんずの舞踏からスタートしながら、現在では、独自のテーマを探究しながら、いわばその発展形として魅力的な身体を立ちあげている根耒裕子とまみえる注目のセッションだった。

 今年の春先、中西レモン主催の「畳半畳」に出演した根耒裕子は、全身を白塗りにし、和紙で作った手製のドレスを身にまとったが、30分弱の即興セッションとなったこの晩は、白塗りはせず、ダンスの装置としてある衣装も、皮膚感覚を直接刺激してくるようなものではなかった。喪中の貴婦人を思わせるベールのついた黒い帽子、背中の部分だけ白とうぐいす色がまじって虫の羽のように見えるゆったりとした黒い薄地のロングドレス、黒いソックス、黒いダンスシューズという黒一色のいでたちで、根耒の想定では、茶会記の強いライトのもとで薄地の洋服が透け、下の裸が見え隠れするはずだったのであるが、実際の公演では、縦格子になった背後の壁に寄ったとき、多少の効果はあらわれたものの、ほとんどの瞬間は、肌の色が服の色にアンサンブルしてしまうため、見るものに布と地肌の質感の相違を意識させることはなかった。残念ななりゆきではあったが、このエピソードは、即興セッションに際しても、根耒がダンスする身体と衣装の間にあるものを、一種の対話的関係として意識していることを示しているだろう。外に対しては、演奏者との位置関係がダンスのありようを決定し、内に対しては、衣装と身体の間でかわされる対話が、内面の吐露というモダンな表現図式のかわりに置かれている。

 根耒の両面作戦は、「畳半畳」の公演レポートで触れたような、私ではなく皮膚が考えるということ、あるいは、舞踏やダンスに奉仕する機能的な身体ではなく、いくつもの表情があらわれては消えていく、ひとつの場としての身体を立ちあげることにつながるはずである。こうした皮膚感覚的なるものの提示は、チェロの森重の演奏にも共通して感じとれるものだ。かたや、この日のライティングによる演出は、闇からはじまり闇に終わる触覚的な時間のなかにデュオ・パフォーマンスを置くもので、舞踏的なもの、即興的なものに、闇から出現する異形の存在というようなイメージを与えていた。ねばりつくような森重サウンドの効果もあって、これは「異文化交流ナイト」にふさわしい秘教的な演出だったと思う。そうしたなか、根耒は床や壁を使って演技したり、ピアノに寄りかかったり、観客席の通路に侵入したり、さらにチェリストに接近すると、前の床に腰を落としてすわったり、横の床に寝ころんだりするなど、茶会記のスペースを縦横に使って踊った。そこには「畳半畳」とまた性格の違う独特な雰囲気がかもし出されていたが、余談としていうと、衣装に身体を慣らす目的でリハーサルしたときには、力が抜けていたこともあって、ボリュームのある彼女のなかにこんな動きが!と驚くような、軽々としたステップやチャーミングな身ぶりがいくつもあらわれていた。

 ダンサーが演奏家と即興セッションするとき、即興を成立させる構造的なもの(なにかを動かすとき、別になにか動かないものを作らなくてはならないが、このときその動かないものが、動くものを支える構造、あるいは足台のようなものとなる、そのもののこと)を、その音楽や演奏の内容にではなく、パフォーマーとしてその場に存在する演奏家の身体そのものに求めることが多いように見受けられる。これはおそらく、ダンサーの視点からは、音楽における即興が見えにくいことによるのだろう。この即興セッションでも、そのような関係のとりかたが試みられたように思われるが、上述したように、響きの表面を執拗になでさすっていく森重の演奏の表層性と、衣装との対話によって根耒が立ちあげようとする皮膚感覚の間には、そもそもとてもよく似たところがある。「畳半畳」に参加した根耒がそうしたように、大きな動きを捨て、ミクロにうごめく皮膚感覚を前面化したとき、ふたつの即興パフォーマンスは、まるで二枚の皮膚のように触れあう領域を獲得することができるのではないかと思われた。ダンスと即興演奏の交点においては、そこにあらわれる新たな感覚──音楽にもダンスにも所属しない、第三の感覚をこそ体験してみたい。■





  【関連記事|根耒裕子】
   「根耒裕子@畳半畳in路地と人」(2013-05-14)

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2013年9月15日日曜日

南阿豆舞踏ソロ: スカーテッシュ~傷跡Ⅲ~



南 阿豆 舞踏ソロ
Scar Tissue III
スカーテッシュ~傷跡 Ⅲ
日時: 2013年9月14日(土)~16日(月・祝)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
14日・15日/開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
16日/開場: 6:00p.m.,開演: 6:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500
演出・出演: 南 阿豆(dance)
照明: 宇野敦子 音響: 成田 護
音楽: 濁郎、Delfino nero(在ル歌舞巫、志賀信夫)
衣装: 摩耶(Atelier P. of S.)
舞台美術: 栗山美ゆき 写真: 小野塚誠



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 ふたつの舞踏ソロ公演『傷跡』『傷跡 II』によって、第44回(2012年)舞踊批評家協会の新人賞を獲得した南阿豆が、シリーズ第三弾となる『傷跡 III』を中野テルプシコールで3デイズ公演した。本シリーズは同じ内容の作品を再演するものではなく、回を追うごとに手直しされ、新たな場面をつけ加えるなどして進化/深化してきたものである。今回が「最終章」と宣言されているが、ここで得られたモチーフは、形を変えながら今後も発展していくことだろう。注意深くあるべきは、『傷跡』のあつかっているものが、いまなお疼くトラウマティックな傷ではなく、文字通り、その傷跡=痕跡だということである。この作品に受け容れがたい傷跡の肯定というような文学的テーマを読むのは、誤解とはいえないまでも、いささか的外れなように思われる。むしろダンサーは、声をもたない出来事の痕跡をいつくしみ、指で丹念になぞるようにして記憶をたどり、感情を回復し、それがはたして踊ることの根拠となりうるかどうかを、痕跡を持つからだによって、あるいは、痕跡としてのからだによって実際に確かめてみようとする。入口はダンサー自身の「傷跡」かもしれないが、それは必ずしも彼女だけのものとはいえない領域へと拡散していく。

 ステージ中央に円形の裾を広げた大きなパッチワークドレス、そのまんなかで横になっていた南阿豆は、開演と同時に起きあがり、立ちあがり、ドレスの裾を巻きこみながら、反時計回りでステージ上を回転していく。衣装が腰までしかなく、ダンサーは下半身が樹になった人間のよう。背中からチョッキのように羽織るだけの黒い上着は、裸のうえに着けているので、乳房が見え隠れしていたが、回転する背中が観客席に向いたとき、静かに脱ぎ捨てられた。下手まできたところで動きがとまると、ダンサーは、蛹から羽化する蝶のように、するりと下半身をドレスから抜き出した。下着はつけている。裸になった彼女は、床に頭をつけ、からだを反らせてブリッジ転倒すると、今度は四つん這いになり、両手両脚を突っ張ってからだを浮かせる転倒、という一連の動きを反復しはじめた。ピナ・バウシュを連想させる外傷的な場面。からだをそらす動作の反復は、肉感的な印象を突出させた。突然、赤いドレスが上手より投げ入れられ、照明が赤く染まると、井上陽水の歌う「コーヒー・ルンバ」がかかり、南は、赤いドレスを手で支えながら、やけっぱちのようなダンスを踊る。曲が終わった後も、しばし空虚なダンスがつづけられた。そのまま床のうえに大の字に倒れこんでから、ゆっくりとした歩みでセンター奥に立てられた二枚の絵の前までいき、赤いドレスを脱ぎ捨てる。

 二双の屏風のように立てられた絵には、斜め上空から見下ろした大地の一面に、こちらを向いて咲きほこる向日葵の群れが描かれている。地平線はない。ダンサー自身によって描かれたこの絵は、雛壇になった観客席と対になるように置かれ、内容だけでなく、形式においても空間構造を決定づける重要な役割を果たしていた。向日葵が描かれた由来は、3.11後に試みられた放射能による土壌汚染対策のひとつに、向日葵が有効だといわれたところにあるという。それを聞いた南は、向日葵の種を大量に買いこんだものの、そのすぐあとで、花が放射能を解毒化するわけではなく、向日葵に移染するだけということがわかったのである。このエピソードは、土地や土に対する南の執着を示すとともに、大地にも、逃れることのできない「傷跡」があることを私たちに示している。この向日葵の絵の前から、ダンスのクライマックスがやってきた。二双の屏風を、向日葵の群生する大地にみなした南阿豆は、両手を翼のように広げて風に乗り、その影を絵に投げかけながら、背中を見せたまま、観客席のほうに少しずつ後退してくる。脊椎、脇腹のくびれ、背面の骨をおおう皮膚などが細かく動きながら、ゆっくりと観客席へと接近してくる。それはまるで、向日葵畑のはるか上空を飛翔する背中のようだった。

 暗転。ステージに脱ぎ捨てられた衣装をまとめていったん楽屋にひっこんだ南は、白いドレスに着替えて再入場してくる。舞台中央までゆっくりと進むと、中腰でつま先立ちになり、足をふるわせながらダンスした。最後には、手のひらになにか大事なものを乗せるようにしながら、観客席のところまでやってきた。ふりかえると、もういちど向日葵の絵の前までいき、絵のなかの人になってその前に立つ。花火大会を思わせる火薬玉の炸裂音と人々のざわめき。音を残しながらの暗転。印象的な終幕である。身体に刻みこまれた痕跡、痕跡としての身体に触れるたびに、新たなダンスの変成がやってくる。舞踏ソロ公演『傷跡』を構成する場面のひとつひとつは、物語的な構成をもつというより、決して説明的ではない数々の傷跡によってもたらされた身体的な変成であり、同時に、変成していくダンスの集積としてあるような公演になっていた。その最大のものが、向日葵に由来する大地の傷、私たちの傷であることはいうまでもないだろう。そのなかで特筆すべきは、南阿豆がヴィジョン化してみせたヒトの背中の解剖学的、造形的な美しさであり、それは大地に残された傷跡を、そのままで受容しようとする天上的なものとしてあったように感じられた。





   ※掲載写真は、写真家の小野塚誠さんからご提供いただいたものです。
      ご厚意に感謝いたします。

   ※以上は初日公演のレポートです。

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2013年8月25日日曜日

新井陽子+木村 由@白楽 Bitches Brew



新井陽子木村 由
日時: 2013年8月24日(土)
会場: 横浜/白楽「Bitches Brew」
(横浜市神奈川区西神奈川3-152-1 プリーメニシャン・オータ101)
開演: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+order(¥1,000~)
出演: 新井陽子(piano) 木村 由(dance)
予約・問合せ: TEL.090-8343-5621(Bitches Brew)



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 最初の晩は、いま季節ごとの開催となっている喫茶茶会記のシリーズ公演「焙煎bar ようこ」、次の晩は、ジャズ専門のフォトジャーナリストとして知られる杉田誠一が経営する横浜白楽のビッチェズ・ブリューでの初ライヴと、二日連続でおこなわれたピアニスト新井陽子のソロ演奏のうち、後者のライヴにダンサーの木村由が緊急参戦した。東横線白楽駅の西口駅前から、ゆるい坂道になっている六角橋商店街をくだっていき、六角橋交差点より一本手前、角にパチンコ屋がある路地を左折してそのまま道なりにいくと、ビルの中二階に「ビッチェズ・ブリュー」の看板が出ている。店内には、路地に面した横長の窓を背負うようにして、一段高いフローリングの床でステージが作られている。上手の壁にアップライトピアノが置かれ、観客席は、バーカウンターとステージにはさまれた狭いスペースに高低二列の椅子を並べたり、ステージ下手側の壁前に四脚ほどの椅子を並べたりして10席あまり、それ以上の観客があれば、出入口の扉からステージまでの通路に椅子を出して座ることになるようである。店内には、オーディオ・ヴィジュアルの機器とともに、杉田氏撮影のモノクロ写真も飾られており、ジャズのイメージを決定づけたモダン・フォトグラフィの神髄をうかがうことができる。

 情報がほとんど流れなかったにもかかわらず、会場にはたくさんの熱心な観客がつめかけた。ピアニスト、ダンサーともに初めての会場という斬新さも手伝ってだろう、第一部、第二部にわかれた90分間は、中野テルプシコールでおこなわれた初共演「1の相点」(518日)を越えるような、熱気のこもったパフォーマンスとなった。極力照明を落とした会場を、独特の雰囲気で照らし出していたのは、ピアノ横の窓際に置かれた丸い電気スタンド、路地に顔を向けて輝く「ZIMA」の青いネオンライト、窓にカーテンのようにかかる青い電飾などである。そこにときおり、客席の上手側から、ダンサーが持ちこんだ床置きライトのオレンジの光が入ってくる。いつもの木村のステージであれば、パフォーマーの影を投影する壁が、ダンス空間を決定づける重要な構成要素となるのだが、この晩はたったひとつあった壁が観客で埋まってしまったため、床置きライトの光は、ぼんやりと能面を照らし出すなどの印象的な効果をあげながらも、ステージの背後からやってくるライト群に、逆の方向性を与えるアクセント的なものにとどまった。こうした環境にあって、パフォーマンスのデフォルトとなったのは、共演者が背中あわせで対峙する、という構造ではなかったかと思う。

 会場が狭いため、壁に寄せられたアップライトピアノが必然化するこの背中あわせの構造は、一年前、高円寺ペンギンハウスで開かれた木村由とピアニスト照内央晴の初回セッション(821日)を連想させた。ピアノが寄せられたのも、おなじ上手側の壁だった。セッションの第一部で、小面の能面をつけ、黒い上着に臙脂の長いスカート、黒のソックスに黒いパンプスという衣装で踊った木村は、第二部で、黒い鳥のような模様がある古風なピンク色のワンピースを身にまとい、白いソックスと黒いパンプスのとりあわせに衣装替えしたのだが、第二部のこの衣装こそは、まさに照内とのセッションで二度にわたって登場したものだった。木村によれば、初めて踊る場所で着る機会が多い衣装とのことだが、結果的に、この選択がもたらす身ぶりのイメージ連鎖には、かなり強い磁力が働いているのではないかと思われた。たとえば、セッション後半には、子供用の椅子が持ち出され、ピアニストにおおいかぶさるようにして、椅子のうえに立ったダンスがダイナミックにおこなわれ、気をつけなければ頭がぶつかってしまうほど低い天井へと手が伸びていったのであるが、これらの動きはすべて、過去の照内とのセッションに登場していたものである。自然に身をまかしているはずのダンサーの即興は、おそらく強力なイメージ連鎖に突き動かされている。

 ピアノ先行でスタートした前半は、能面をつけた木村がゆっくりとステージに歩みいる出だし。後半は、子供用の椅子に座った木村のダンスからはじまり、あとで新井の演奏が入ってくるという対比的な構成。ダンサーと背中あわせになった新井は、共演者の動きを完全に見ることができないまでも、できるだけ顔を左右にふり向けて、動きの気配を感じながら演奏しようとしていた。ピアノ横にある窓ガラスの反射を利用して、ぼんやりとでも木村の姿が見えたかもしれない。一方、能面をかぶった木村は、ただでさえ暗いところを、能面がさらに視界を狭めることとなり、ほとんど「儀式的」といいたくなるほど、大きく制限された条件のなかでダンスを踊ることになった。すべてを見ることができた観客とは対照的に、パフォーマーのふたりは、ともに同じことをしているとも、別のことをしているとも判断できない状況にあった。先読みのできない、コントロールのきかないこの状態は、パフォーマンスの即興性をより高めることになったと思う。ここで分有されたものをいうとしたら、やはり背中あわせの構造というしかないだろう。能面のとれた第二部では、椅子から立ちあがり、ピアノの上部を開けて内部奏法する新井の動きも加味され、それぞれの方向から共演者の動きにアクティヴにかかわる場面が多くなり、複雑さも増せば、話も長くなるなりゆきで、節度をはずさない徹底さで、次々にパフォーマンスが増殖していくこととなった。

 この晩のセッションで注目させられたのは、前述したように、照内央晴と共演してきた木村のなかに、ピアノ演奏と結びついた、強力な動きのイメージ連鎖があるらしいということだった。もちろん、これはいまのところ仮説でしかない。ちなみに、照内との初共演で「背中あわせの構造」が立ちあらわれたとき、ピアニストは、ピアノ演奏が即興的に作り出す音楽パターンのなかに引きこもったため、ダンサーとの間にすれ違いが起こった。新井と木村の白楽セッションでも、すれ違いが起こっていることに変わりはないのだが、それはふたりがそれぞれの内面に(明晰な)視線をふり向けたために起こった出来事ではなく、「先読みのできない、コントロールのきかない状態」を維持しながら──あえていうなら、半盲目状態の視線を持ちつづけることによって──パフォーマンスの接点を手探りしていたからである。そこでただ一度だけ生きられた出来事こそが、私たちが「身体性」と呼んでいる当のものなのではないかと思う。この半盲目状態は、ピアノソロにおいて、方法論的なアプローチをとることの多い新井のやり方を、封じることにつながった一面もあるに違いない。ここで注意深くあってほしいのは、これらのすべては即興演奏においてつねに働いていることであり、(半)盲目状態になることが、ほんとうの即興演奏だといっているわけではないということだ。即興演奏を即興演奏たらしめる明晰な視線を疑うことも、決して無駄にはならないだろうということである。





 【関連記事|新井陽子+木村 由】
  「新井陽子+木村 由: 1の相点@中野テルプシコール」(2013-05-19)

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2013年8月19日月曜日

高原朝彦+太田久進@Gallery Kissa



高原朝彦太田久進 DUO
日時: 2013年8月18日(日)
会場: 東京/蔵前「ギャラリーキッサ」
(東京都台東区浅草橋3-25-7 NIビル4F)
開場: 5:00p.m.、開演: 5:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: 高原朝彦(10string guitar) 太田久進(sounds)
照明: 木村 由
問合せ: TEL.03-3303-7256(ダンスパフォーマンス蟲)

高原朝彦|第一部 演奏曲
[ルネサンス]
「バレット」(作曲者不明)
「ガリアルド」(作曲者不明)
「パキントンズ・パウンド」(作曲者不明)
「もし、いち日が、ひと月が、いち年が」(ジェイン・ピカリング)
「ルドピコのハープを模したファンタジア」(アロンソ・ムダーラ)
[バロック]
「リュートのためのプレリュード」(J.S.バッハ)
「プレリュード」(無伴奏チェロ組曲1番/J.S.バッハ)
「サラバンド」(無伴奏ヴァイオリンパルティータ1番/J.S.バッハ)
[近現代]
「ジムノペディ1番」(エリック・サティ)
「サラバンド」(フランシス・プーランク)



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 ダンサーの木村由と「ダンスパフォーマンス蟲」を共同主宰している太田久進(おおた・ひさし)は、現在、画廊やライヴハウスなどで小規模に催される木村のダンス公演で、音響や照明などのスタッフワークを担当している。昨年暮、経堂のギャラリー街路樹でおこなわれた木村の定期公演『冬至』を観劇した10弦ギターの高原朝彦が、太田の作り出す音響世界に魅了され、サウンド指向にあるみずからの演奏との共演を構想したのが、事のはじまりであった。高原にとって、これはヴォイスの本田ヨシ子が作り出すシーツ・オブ・(ヴォイス)サウンドとの共演に通じるプロジェクトであり、「音響」を切り口に、表現のエゴイズムから解放されたクールネスの感覚を、固有のサウンド構築のなかに織りこんでいく響きの作り手と共演することで、みずからの演奏に新境地を開こうとする試みといえるだろう。高原の構想は、意識していると否とを問わず、かつて音響派の文脈で議論されていたサウンドの物質性だとか、表現主体からの離脱といったテーマ群につながっている。このことは、田村夏樹や太田惠資などをゲストに迎え、高速度の演奏をぶつけあう喫茶茶会記のシリーズ公演「d-Factory」との対比によって、より鮮明になることだろう。

 かたや、舞台向けに「音空間のデザインを模索」してきた音響の太田久進については、音楽家が劇伴を担当するのとは違って、自立したサウンドアートの演奏家としては、まったくの未知数である。この日のセッションでは、ひとつひとつの演奏が、表現者であることの際を(再)発見させていくようなものとしてあるように思われた。ふたりの初共演は趣向のあるものとなり、第一部では、ルネサンス、バロック、近現代と、時代を下る楽曲構成で坦々と爪弾かれる高原のギター演奏に対し、まったくからむことのない太田の音響(人の声や虫の音のような環境音も含む)が、まるで別の部屋にでもいるかのように同時進行していくセッションとなり、第二部は、10弦ギターの即興演奏に、太田がバラバラなサウンドを思いつきのように対置していくものとなった。太田が準備した長い木製テーブルは、音楽解剖をおこなう手術台のようで、ポータブルCDプレーヤーや音響ミキサー、各種データ音源などはもちろんのこと、二部の即興対決では、カズー、赤い箱形をしたおもちゃのテルミン、新聞紙、竹の笛、高原のものとよく似た帽子、長いゴム手袋に黒眼鏡といったような、奇想天外なものがいろいろと登場してきた。なかでもCD-Rをまとめ売りする透明プラスチックの空ケースにコンタクトマイクを接続した音具は、得体の知れないサウンドを生み出す楽器として多用されていた。

 エレクトロニクス奏者のようにクールだったライヴ前半と対照的に、後半の高原との即興対決において、太田はパフォーマンスの要素を大々的に取り入れた。マイクに声を吹きこむときにとる猫背の姿勢、帽子をかぶりサングラスをかけ、白いゴム手をつけて新聞を折り畳む演劇的な場面、畳んだ新聞を勢いよくふってパンといわせるしぐさ、金色の袋から取り出されるさまざまなグッズ、赤いテルミンを鳴らすときアンテナ周辺に置かれる漂うような手の形、そして最後の場面では、演奏の終わりをアピールしながら、共演者に対して手刀を切る感じでバランスをとる姿勢など。これらをパフォーマンスのためのパフォーマンスと解釈することもできるだろうが、あえて演奏性に引きつけていうならば、個々の響きをそれぞれに特異な出来事にするため、演奏する身体のありようをまるごと変える必要があるところからやってきた選択ではないかと考えられる。ひとつの響きにひとつの身ぶりが対応するところに、異なる出来事の連結という響きのバラバラな状態が訪れる。端的に、ダダイスティックな身体と音響の連関といってもいいが、太田はそのような身体的変容を、身体に内在する衝動によってではなく、さまざまな道具立てによって、すなわち、コンセプトによってなそうとした。この違いは大きいだろう。

 このようにして、前後半それぞれに内容を変えながらも、ひとつのシークエンスを構成する高原のギター演奏(音楽的身体)に対して、太田の演奏は、徹底的に断片的なものの集積(音響的身体)を提示したように思う。違う部屋にいるふたりの人間が、別々の演奏をしながら、おなじ場所でセッションしているような前半は、この意味でも示唆的なものであった。高原のギター演奏が、ルネサンス、バロック、近現代と、時代を下る楽曲構成をとっていたこと、すなわち、演奏に内的な必然性を持たせようとしていたのに対し、太田の演奏は、そのような音楽的な必然性に依拠することなく、あるいは、音楽する根拠を廃棄するようにして、引用される個々のサウンドに対する洗練された、繊細な耳によってのみ、出来事を成立させようとするものであったからだ。ただ一点、ここでの太田の音響世界が、高原のギター演奏に対してじゅうぶんに非場所的なものを対置することなく、ときにその背景をなすような印象があったこと、美的なものに流れる瞬間があったことは否定できないだろう。いたるところに出現する異形の響き、太田の身体そのものと呼べるようなこれら特異性を備えた響きは、魂魄のようにあたりを漂っていた。




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2013年8月12日月曜日

真砂ノ触角──其ノ四@喫茶茶会記



吉本裕美子 meets 木村 由
真砂ノ触角
── 其ノ四 ──
日時: 2013年8月11日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開演: 8:00p.m.、料金: ¥2,000(飲物付)
出演: 吉本裕美子(guitar) 木村 由(dance)
照明: 細田麿臣
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)



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 ギタリスト吉本裕美子とダンサー木村由による即興セッション「真砂ノ触角」は、喫茶茶会記で半年ごとに開催されるシリーズ公演である。観客席が会場の半分を占めるコンパクトな茶会記は、ダンサーにとって、遊びのない、逃げ場のないスペースであるところから、パフォーマンスの結果も出やすく、つねに緊迫感のあるステージが展開される場所となっている。「真砂ノ触角」の場合、セッションによってふたりの関係性が変化するわけではないものの、吉本に対する木村のアプローチは、回を重ねるたびに濃密さを増している。四度目となる今回、いつものように照明を落とした暗闇のなか、ギター演奏する吉本の周囲を回りながらダンスした木村は、前回に増して、少しからみすぎではないかと思うほど、共演者に接近したパフォーマンスを展開した。ギタリストが演奏の途中で(演奏をやめずに)床に座ったり、立ち位置をステージのセンターに移したりしたのも、ダンサーの積極的なアプローチが引き出した結果といえるだろう。今回のセッションを異例なものにした要素がもうひとつある。それは、これまでの固定ライトを排し、照明担当のスタッフ(細田麿臣)が、ダンスの進展にあわせて即興的に場面を作っていったことである。

 やや煩雑になるが、照明による場面転換を追ってみることにしよう。(1)下手の床に置かれたライトが、斜め下方から出演者の影を背後の壁に投影する場面[木村は時計回りに吉本を回りこみステージ中央へ]、(2)接触不良のようにチラチラするステージ中央の暗いスポットだけでダンサーを照らし出す場面、(3)(2)の暗いライトに(1)の床置きライトを加えた場面[木村は反時計回りに吉本の周囲を二度回り、上手のアップライトピアノの前まできてとまる]、(4)(1)の床置きライトの場面[吉本は床に脚を投げ出す格好で座りながら演奏]、(5)上手アップライトピアノのうえの丸い照明だけの場面[ほとんど暗転に近い印象]、(6)(5)の丸い照明から(1)の下手床置きライトへの移行[木村はここで麦わら帽を脱いで顔を見せる。反時計回りに下手の床置きライトの前までゆく][吉本の一時的なセンターへの移動]、(7)ふたたび(2)の場面、(8)暗転、(9)暗転後もギター演奏が終わらなかったため直前の場面に戻る、10終演。見られる通り、ダンサーの動きに対して論理的な構成をとってはいるが、場面が頻繁にスイッチをくりかえしたことで、今回の「真砂ノ触角」が、実質的にはトリオ演奏になったことがわかるだろう。

 ライティングによる場面転換は、光をもってする空間のコードチェンジに喩えることができるだろう。一般的に、長時間の集中に慣れない観客に、構成の妙をもってする場面転換は、見やすさを提供することになるだろうが、「真砂ノ触角」に関するかぎり、大きくふたつの点で共演者たちを裏切る結果になったのではないかと思う。「裏切る」という言葉が強過ぎるのであれば、ちぐはぐななりゆきになったとも、あるいは本来の趣旨とは別のものになったともいえる。ひとつは、頭も尻尾もない、無時間的なありようをしている吉本裕美子の即興演奏に、いたるところで切断がもたらされた点。両者の行き違いは、木村の動きを追っていた吉本が、暗転の意味を察知できずに演奏しつづけた部分などにあらわれている。もうひとつは、明確に線引きのできない、境界領域でのダンスに切迫したものを出現させる木村由ならではの身体表現に、それが可能となるような空間の余白をもたらさなかった点である。これは木村ダンスの亡霊性を封印する働きをした。「真砂ノ触角」の眼目は、共演者のふたりが、セッションのたびごとに別の場所で出会う点にあると思うのだが、今回に限って、その出会いが公演のクライマックスを構成する演出にはなっていなかったということである。しかしながら、これを照明の不手際に帰するのは的外れだろう。そうではなく、このようななりゆきを必然的にするような関係性が、「真砂ノ触角」のなかで進行していたということだと思う。

 以上のような経緯から、公演をトータルにとらえることはむずかしいが、視点を木村由にしぼってみれば、前述したように、吉本に対する木村のアプローチは、回を重ねるたびに濃密さを増しており、そこに彼女の強固な意志を感じさせるなりゆきとなっている。この晩の木村は、麦わら帽に黒い上下のスーツ、かかとの広いパンプスといった異様ないでたち。特に、顔を隠すように深くかぶった麦わら帽は、富山市八尾地域で開かれるおわら風の盆で、人々が編み笠で顔を隠しながら踊る姿を連想させた。あの世から先祖たちを迎える盆祭、生者と死者を(生と死を)反転させながらの踊り、群衆がやぐらをかこんで踊る風景など、直接的な関係はなかったにせよ、季節柄そう感じるのはごく自然のなりゆきだったと思う。とりわけ印象深かったのは、麦わら帽で顔を隠した木村が、パフォーマンスのほとんどを、暗闇を動きまわる影としておこなったことだった。もしかするとこれは、「吉本の影が勝手に動き出す」という見立ての踊りだったかもしれない。影であるからこそ、共演者への無限の接近が可能になるというような。その当否はおくとしても、この晩の彼女のパフォーマンスは、これまでの影の分身的とりあつかいをさらに一歩進めた、重要なものであったように思う。





 【関連記事|真砂ノ触角】
  「真砂ノ触角──其ノ弐@喫茶茶会記」(2012-08-27)
  「真砂ノ触角──其ノ参@喫茶茶会記」(2013-01-14)

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2013年8月11日日曜日

入江平舞踏公演:「静物」2



入江平舞踏公演
静物
日時: 2013年8月10日(土)
会場: 東京/中野「テルプシコール」
(東京都中野区中野3-49-15-1F)
マチネ/開場: 1:30p.m.,開演: 2:00p.m.
ソワレ/開場: 6:30p.m.,開演: 7:00p.m.
料金: ¥2,000
演出・出演: 入江 平(dance)
照明: 神山貞次郎
音響: 成田 護
問合せ: 03-3338-2728(テルプシコール)



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 「静物」の眼目と思われるものについて、「それ自体が境界的な存在であるトイピアノに対して、内側と外側から、それぞれに身体的な関係を結んでみる」ことと書いた。境界的な存在を内側から感覚してみること、すこしあとで、それを外側から感覚してみること。内側からのアプローチには触覚と聴覚が利用され、外側からのアプローチには視覚が利用されているわけだが、この違いは感覚器官のとりあえずの特性によるもので、シーン構成のうえで時間的なずれがもうけられているのは、いうまでもなく、それを同時に示すことができない(トイピアノに触れながら離れているというようなことはできない)からである。触覚や聴覚もまた、触れているもの、聴いているものの空間的な広がりを、皮膚や耳小骨のふるえから感じ取っているし、視覚もまた、そのものの外観に触れることでそれがなにごとであるかを見ている。「静物」公演の場合、観客は、いまさっきそこで(親しく、内側から)触れられ、聴きとられしていたものが、ステージのうえに放置され、捨て去られているのを(よそよそしく、外側から)見ることになるが、いまダンサーを見ている自分もまた、ついさっきまでダンサーの感覚に巻きこまれてそのものに触れ、また聴きとっていたという感覚の残留によって、ふたつの方向性を持った複合的な感覚のベクトルを生きることになる。

 これらの感覚は一見バラバラのように見えるし、事実、トイピアノを小道具と考える観客にとっては、バラバラなものにとどまり、ひとつの経験を結ぶまでにいたらないかもしれない。「静物」によってひとつの出来事を経験したというためには、トイピアノを内側から感覚していった先にあるものと、トイピアノを外側から感覚していった先にあるものがどこで出会うのかについて、想像をめぐらさなくてはならない。「静物」を踊った入江のダンスは、ひとつの問いとしてあり、こうした諸々の感覚の虚焦点を求める作業は、観客の身体に投げかけられたものとしてある。もちろん私たちは、そこにあるのは、さまざまに感覚されたさまざまなトイピアノだけだということもできるのだが、そういってしまうと、入江平の「静物」公演は、おそらく出来事として再構成されないだろう。

 ダンスが内側から外側へと向かう転換点に置かれた「椰子の実」のメロディ弾奏──トイピアノが単なる木の箱ではなく、ものいう楽器でもあることを示したこの場面が、ひとつの示唆を与えているのではないかと思う。周知のように、柳田国男の話を素材にした島崎藤村の詩は、遠い島から海岸に漂着した椰子の実に、南国幻想と望郷の思いを重ねたものである。おなじようにトイピアノに触れるといっても、重量のある木の箱を運ぶのとメロディを奏でるのとは、まったく別の身体性を喚起することになるが、そこにはベースをなすようなひとつの感覚があると思われる。それをかいがいしく我が子の世話を焼く親のように、対象に触れることで喚起されるケアの感覚というようにいうことができるだろう。からだのなかで鳴っている音を触診し、怪我のないようにていねいに抱き運び、床のうえに寝かせては、さまざまな身ぶりで楽しませ、いうことを辛抱強く聞いてやり、たとえ遠くにあるときも、存在を片時も忘れることはないというような。島崎藤村が椰子の実に語りかけ、みずからのありようをそこに重ねたようにして、入江平も、トイピアノへの語りかけを、さまざまな関係性を結ぶことで作品化したのではないかと思われる。ケアの感覚が、身体的な交感をベースにしてなりたつものであることは、いうまでもないだろう。

 ダンサーたちのステージを見ていて驚かされることのひとつに、彼ら/彼女らが、椅子やテーブルのような家具、壁や床のようなダンス環境、さらには、それがなんであれ、一般的にものに触れることでその本質を直観する力である。ときには「呪術的」と呼びたくなるほどの特異さを感じる場合さえある。椅子を椅子としてしか使わないというように、人により感じ方の深浅はあるにしても、ものいわぬそのものたちから固有の質感を引き出してみせる彼らの力を、私たちがまだ明らかにできていない身体能力といってもいいのではないかと思う。「静物」という入江公演のタイトルは、こうしたダンサーの感応力にも触れているはずである。演奏家は、いまでは楽器の形をしているものの、もともとは木や皮や金属などをたたいたりこすったり吹いたりすることで、それらのものから固有の声を引き出す人たちなので、例えば、画家たちよりもずっとダンサーに近い能力の持ち主ではないかと思われる。ダンサーの多くが、ミュージシャンの演奏そのものより、演奏する人の姿に出来事を感じるようであるのも、身体表現の専門家だからというのではなく、ものたちとの直接対話に飛びこんでいくことのできる彼ら/彼女らの能力に、通ずるところがあるからではないかと思われる。

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