2011年9月18日日曜日

秋山徹次 - 河合拓始:Transition


秋山徹次 - 河合拓始
 『TRANSITION』
(Ftarri, ftarri-997)
 曲目:1. Continuation(4:05) 2. Superposition(3:16)
3. Confrontation(2:54) 4. Variation(10:51) 5. Transmission(4:44)
6. Realization(8:23) 7. Penetration(7:48)
8. Intervention(3:19)
 演奏:秋山徹次(g)、河合拓始(p)
 録音:2009年9月14日
 場所:東京/吉祥寺「GOK Sound」
 美術:繁田直美 デザイン:竹田大純
 発売:2011年8月28日



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 ジョン・ケージの教えを待つまでもなく、音楽を生みだすおおもとにあるのは、時間をどのようなものとしてとらえ、時間にどのような構造を与え、時間をどのようなものとして生きるかというそのことである。ジョン・ケージのさまざまな音楽実験を待つまでもなく、ときに人は他人とはまったく別様に時間を感じるということがあり、そのために、あるコンサートでは、ひとつの場所に並行状態を保ちながら、とらえかたも、構造も、生き方も違ういくつもの種類の時間が流れるということがある。

 そうした場所では、出来事がたったひとつ起こるのではなく、ふたつ以上、ことによったらたくさんのことが同時に起こることになる。音楽が伝統的な聴かれ方をする必要があり、演奏にひとつのスタイルが求められるような場合、これは間違いなく異常事態の出現であり、端的に演奏の失敗としかみなされないだろうが、即興演奏においてこのことはむしろ常態となっている。喧嘩をはじめるのか、相手になにかを譲り渡すのか、そのようでしかありえない(時間)感覚の相違を、そこでどうするかはもうひとつ別の話である。(時間)感覚が違うからあなたとは共演しないということにはけっしてならない。

 即興演奏におけるこの態度を、ケージのような音楽実験と考えるのか、即興演奏の本質と考えるのか、他者にむかう倫理的態度と考えるのかによって、そこでおこなわれる演奏の聴き方や評価のしかたも変わってくるだろう。わざわざスタジオ収録された秋山徹次と河合拓始のデュオ『Transition』(Ftarri)──しかしなんという古風なタイトルなのだろう──において決定的なのは、すべてに先んじて、河合拓始が、時間のとらえかたも、構造も、生き方も違う秋山徹次を共演者に選んだというところにある。

 河合拓始のピアノ演奏は、鍵盤のうえを指が走るときも、プリペアドした弦でノイズを出すときも、響きをつなぐことによって、あるいは響きの背後にある意識を途切れさせないことによって、連続的に時間を紡ぎ出していく。河合ならではの(グロテスクな、と表現してもいいのだろうか)身体的な突出もあり、あらわれはきわめて前衛的だが、こうした時間感覚の点では、むしろ伝統的な演奏というべきだろう。一方の秋山徹次は、即興演奏の領域において、(すでに私的には何度もこの呼び方をしているのだが)ポスト・ベイリーの地平を積極的に受け継ごうとする演奏家で、演奏のたえざる切断によって時間を紡ぎ出していこうとする。この意味で、両者は対極にある演奏家と言いうるわけだが、おそらくはそこにこそ河合が秋山に白羽の矢を立てた理由があるのだろう。

 ふたりの演奏は、ゆきつもどりつし、物語における起承転結のような、あるいはクラシカルなソナタ形式のような到達地点を設定しない。というか、共演が決まった瞬間から、そのようなものが存在しないことは、じゅうぶん承知だったはずである。ふたりの間に響きの空間が開け、それが時間のかわりにふたりの距離を埋めていく。あるいは同じことだが、距離を作っていく。秋山が中村としまると組んでいる<蟬印象派デュオ>では、すでに長い共演歴のあるパートナーの中村は、それ以上のなにもしようとしないが、本盤の河合拓始は、アンサンブルするかわりに、ふたりの間を埋めるようなことをなにかしようとしていて、それが演奏に “ずれ” ではなく “遅れ” を生んでいる。違いはそれくらいだろうか。■

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 ※レーベルサイトでサンプル演奏を聴くことができます。