2024年7月24日水曜日

深谷正子: 動体観察 2daysシリーズ[第3回]伊藤壮太郎、津田犬太郎、◯ヰ△『男性3人によるインプロビゼーション』

深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ[第3回]

極私的ダンスシリーズ

深谷正子『庭で穴を掘る』

日時:2024年7月22日(月)

開場: 6:30p.m.、開演: 6:00p.m.


ゲストダンサーシリーズ

『男性3人によるインプロビゼーション』

出演: 伊藤壮太郎、津田犬太郎、◯ヰ△(マルイサンカク)

日時:2024年6月23日(火)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金/各日: ¥3,500、両日: ¥5,000

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

会場受付: 玉内集子、曽我類子、友井川由衣

写真提供: 平尾秀明

問合せ: 090-1661-8045


 パフォーマーのリクエストにより、照明や音響のスタッフを不要とした公演の前半、暗転のなか黒い服装をしていた伊藤壮太郎、◯ヰ△のふたりは、闇夜のカラス状態でなにをしていたのか肉眼でよくわからず、まさしく事態は闇鍋状態で進行していった。事態を把握するため、観客もまずは暗闇に目を慣らす時間が必要だったように思う。黒幕が張られた楽屋裏から引き出した脚立に乗って、天井の長押から紐に結んだ石を吊りさげる◯ヰ△、リュックを背負い自然光が入るホリゾント窓の前で影になって動く伊藤壮太郎、白いガウンのような裾長の服を着て、すわったり立ったり幽霊のようにゆらめく津田犬太郎、公演冒頭からかなりの時間、3人がどんな関係を結ぼうとしているのか見当すらつかない状態が延々とつづいた。

 一般に表現者が「即興」にたどり着くにはさまざまな理由があるだろうが、ここで「男性3人によるインプロビゼーション」というのは、演出のためのスタッフを置かず、可能なかぎり他者の介入を排することを意味している。即興することは、自由や偶然性を徹底することだったり、完璧な自己表現の実現であったり、即興ダンスを踊ることだったりとさまざまだが、本公演で目指されたのはおそらくもっと単純なこと、振付の不在であり、演出家の不在であり、リハーサルの拒否だったように思う。換言すれば、劇場の拒否、劇場というシステムを支えるものすべての拒否ということになるだろうか。この点において、2daysシリーズを主催する深谷正子が伊藤壮太郎と知り合ったのが、タップダンスの米澤一平が場づくり師として登戸の高架下で主催していた「ノボリトリート」であったことは、本公演を理解するうえで重要だろう。


 2days公演の初日におこなわれる深谷正子の極私的ダンスは、スペースDを完全暗転のできる虚構空間にすることでシリーズ前史としてある七針でのそれと差異化を図る方向でおこなわれている。それに対して、2days公演の2日目を構成したゲストダンサーシリーズの「男性3人によるインプロビゼーション」のありようは、むしろ先月おこなわれた女性3人による『月の下の因数分解』に近く、群舞として初共演したメンバーが、劇場の拒否をより徹底したパフォーマンスといえる。両者をくらべてみるとき、上手・下手・ホリゾントにあたる壁についている窓に戸を立てることなく自然光を入れ、どちらの公演にもダンサーが窓を開放する場面があった点に注目したい。男性3人のセッションはこの方向をさらに敷衍して、ギャラリー階段の扉口から光をいれたり、扉を開放状態にしたり、黒幕のおりた楽屋からも出入りすることでスペースDの空間にいくつもの穴を開け、実際にさかんな出入りをおこなうことで劇場空間をストリートに変えていた。出会いを語るならば、スペースDをノボリトリートの高架下に変えたといういいかたも許されるだろう。スペースDの劇場性は、暗転下の自然光だけでおこなわれた前半から、白い衣装から黒い衣装に着替えた津田犬太郎が小さな照明器具を持ちこんだり、大きなPAを背負って雑踏する音やコントラバスの響きを出しながらステージを左回りで歩行していく後半、わずかに回復した。こうした津田のパフォーマンスこそは、不在の演出家を代行するような意図をもって、この日の公演のストリート性を深谷の意図する劇場性につなげるものだったといえるだろう。このことは公演後におこなわれた各人のインタヴューで、津田が「なによりも終わりがあってよかった」と述べたところにもあらわれている。 

 初回の小松亨ソロは未見なのだが、2回目以降、群舞を再定義するように進行しているゲストダンサーシリーズは、ダンスにおける作品性の外に出て、もしくはダンスの作品性とダンサーの身体性の境界線上で起こっていることを意識化するようにしておこなわれている。深谷のいう「動体観察」とは「それぞれの方法で穴を掘り続けている表現者」の「身体の魅力」にフォーカスするための公演形式の模索であるが、その背景には、劇場をひとつの表象システムにしているものへの批判が存在する。「動体観察」とは現代における身体のリアルの再獲得を目指すものだろうが、そのことはかならずしも劇場に「外」があるということにならないように思う。ダンス公演をめぐるこうした複雑な連立方程式をひとつずつ解いていくところに、「動体観察」の成否もかかっているのではないだろうか。(北里義之)


深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ

2024年7月23日火曜日

深谷正子: 動体観察 2daysシリーズ[第3回]極私的ダンス『庭で穴を掘る』

 

深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ[第3回]

極私的ダンスシリーズ

深谷正子『庭で穴を掘る』

日時:2024年7月22日(月)

開場: 6:30p.m.、開演: 6:00p.m.


ゲストダンサーシリーズ

『男性3人によるインプロビゼーション』

出演: 伊藤壮太郎、津田犬太郎、◯ヰ△(マルイ・サンカク)

日時:2024年6月23日(火)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.


会場: 六本木ストライプハウスギャラリー・スペースD

(東京都港区六本木5-10-33)

料金/各日: ¥3,500、両日: ¥5,000

照明: 玉内公一

音響: サエグサユキオ

舞台監督: 津田犬太郎

会場受付: 玉内集子、曽我類子、友井川由衣

写真提供: 平尾秀明

問合せ: 090-1661-8045


 深谷正子による前回のスペースD版「極私的ダンス」の第二弾『エゴという名の表出』を回顧すれば、たくさんのビニール袋に入れたレモングラスの葉を腹に抱えて妊婦のように歩きまわり、ビニール袋を破いてはレモングラスの葉をステージにあふれさせるというもので、衣装でもあり変容する身体でもあるような美術装置によって、ダンスがなにがしかの作品を踊るということがなくても自然に踊りが決定し、身体感覚が導き出されてくるというものであった。個展などで知ることになった美術作家の作品を引用することで、他者の身体感覚とともに踊ることもあれば、日常生活のなかになに食わぬ顔をして存在している日用品やら食材やらをステージに乗せることで異化しながら、深谷ならではの記憶と結びついた「極私的ダンス」が踊られる。感覚はつねにそこに感じられるべきものとしてあり説明を求めない。

 これも前回既述したことだが、本シリーズの重要なポイントになるので再確認しておくと、七針の極小空間からスペースDへの移行が意味しているのは、「極私的ダンス」に不可欠の感覚を起こすための環境が大きく変化したということであり、特に周囲の窓に戸を立てて完全暗転になるような劇場空間をしつらえてのパフォーマンスは、身体感覚だけで出来事を起こすというより、そこにある種の虚構が必要になっていることが想定されることだ。そのことを端的に示しているのが、過去の七針公演のタイトルが「垂直思考 Ba Ba Bi」(2014年)であり「枕の下の月 もしくは逆さまつげ」(2016年)であり「カサブタ」(2023年)であるような、感覚に直結する説明抜きの言葉であったのに対し、スペースDに移ってからは、前回の「エゴという名の表出」といい今回の「庭で穴を掘る」といい、感覚を離れた言葉が採用されていることに端的にあらわれている。同様のことを、ダンスの動きに関する変化としていうなら、「極私的ダンス」のパフォーマンスが断片的な感覚の集積から構成されるのではなく、そこに物語が求められるようになった点に注目すべきだろう。あえていうならば、そこにはモダンダンス(的虚構)への回帰が生じていて、この日真夏の酷暑に喘ぐ六本木には、公演冒頭、厳冬のモスクワに厚手のコートを着て貴婦人が立ったような、幻惑的な物語の情景が出現したのだった。

 黒いシュミーズを着用、マフラーを何本も巻いたうえから薄緑色のレインコートを何重にも重ね着してスポットライトのなかに立った深谷は、はじめはとてもゆっくりとした速度で、次第にスピードを速めながら重ね着して簡単に抜けなくなった衣装の筒袖を引き抜いたり、両手を大きく開いて背中から脱いでいったり、バサバサと衣装をはらいながら脱いでいったりするなど、衣装を脱ぐしぐさはミニマルなダンスになっていたが、それをそうと感じさせない動きをしていきながら、脱衣の物語を踊っていった。レインコートを脱ぐ反復動作がふと止まり、床上を見おろしたり、上体を反らせて天井を仰いだり、観客席を睥睨するように相対する場面は、ダンサーとしての迫力に満ちており、ひと睨みで観客席を凍りつかせるさまは、この身体が一日にしてなったわけではないことをあらためて教えてくれるものであった。

 まさに「庭で穴を掘る」ということ、すべての窓が封鎖され、暗箱のようになった抽象的な空間に、脱衣という日常性を背景にした出来事への集中によって、物語が生まれ、ダンスが生まれ、劇場が生まれるということを雄弁に語った公演だった。脱衣をくりかえす物語構造に乗って、頭をふったり、両手をクロスしてコートの胸前を合わせたり、片手を伸ばしたり、「ハッハッ」と息の音をさせたり、両手指をモミモミと動かしたりと、細かな動きを点綴していきながら踊りのヴァリエーションが作られ、すべてのコートを脱いでしまってからは、床上に立膝になったり頭をつけたりして前半と一変する動きをみせた。これもまた「穴を掘る」イメージを受け継ぐ場面だったかもしれないが、腿を強くヒットしながら歩くなど、痛さを直接感じさせる七針スタイルに戻るような場面もみられた。ダンスが終わりに近づくと、床上に脱ぎ捨てた衣装の山を踏みつけながら右回り、一点ずつ鳴らされる鐘の音に送られ、衣装をふりかえりながら下手に歩き去るところで暗転となった。ここでも物語的に結末が情景描写されたといえるだろう。平仄は合っている。(北里義之)■


深谷正子 ダンスの犬 ALL IS FULL: 

動体観察 2daysシリーズ

2024年7月22日月曜日

第16回シアターX国際舞台芸術祭2024[21日目]: クロージング・ガラ

 


第16回シアターX国際舞台芸術祭2024
「地球惑星人として、いま」

【21日目|最終日】

クロージング・ガラ



ケイタケイラズ・ブレザー

『二人舞い〜渚』

作舞: ケイタケイ

出演: ラズ・ブレザー、ケイタケイ


天野裕子

『新作オペラ 少年オルフェ 予告編』

ピアノ: 天野裕子

語り: 宇佐美雅司


邦正美創作舞踊研究所

杉浦はるみ『審判の日

演者: 國松きみ子

高﨑尚子『表裏一体』

演者: 高﨑尚子、笹田彰子

小笠原サチ子『追慕』

演者: 小笠原サチ子 

本木歌奈子『口』 

演者: 江原冨代、手塚雅子、本木歌奈子、小林眞理子、山本絵里子


池田直樹

『IDTF Special Gala

構成・独唱: 池田直樹

ピアノ: 高木耀子


日時:2024年7月21日(日)

開場: 1:30p.m.、開演: 2:00p.m.

会場: 両国シアターX

(東京都墨田区両国2-10-14|tel.03-5624-1181)

料金: 前売り/当日: ¥1,000

舞台監督: 宇佐美雅司

照明: 曽我 傑、宇野敦子

音響: 柏 環樹、鳥居慎吾、川村和央

主催: シアターX



 カナダからの来日が予定されていたジョスリーヌ・モンプティは、芸術祭の期間中に準備が間に合わず延期、11月に開催される「飛び石企画」でノルウェーの一人芝居『痕跡スヴァールバル諸島』が来日公演するのにあわせて参加することになった。かわりに8月に本劇場で公演が予定されている天沼裕子の子供といっしょに楽しめるオペラ少年オルフェ乗り越えられない試練はない(原作: 米沢幸男)が、歌手の代わりに宇佐美雅司を語り手に迎えた「予告編」として公演された。転んでもただでは起きないというか、豊かな表現者たちの草の根ネットワークを生かして、クロージングが新たな出発点へと通じるシアターXらしい危機対処の手腕をみせた。

 フェスティバルの顔になっているダンサー/振付家ケイタケイが、自身のダンス・カンパニームービングアース・オリエントスフィアのメンバーであるラズ・ブレザーとデュオで踊った二人舞い~渚』は、手に手をとって朝の浜辺を散策するような情景を連想させる静かなダンスで、歩行のミニマリズムやユーモラスな味わいともども、モダンダンスの歴史に刻印された石井漠のデュエット作品『山を登る』(1925年)を連想させる作品となった。

 天沼裕子が自身でピアノ演奏した『新作オペラ 少年オルフェ 予告編』は、作曲者の解説つきで新作オペラの代表曲を語り聞かせる内容で、ギリシャ神話の地獄めぐりでよく知られるオルフェウス神話を題材にしながら、宮沢賢治の童話を思わせる子どもたちの成長物語に翻案したジングシュピール(歌芝居)として舞台化した作品である。黒いスーツに身を包んだ宇佐美雅司の表情豊かなテクスト朗読が「少年オルフェ」の物語を彷彿とさせるなか、「裁判長のアリア」「忘却の詩」「メモリー花の歌」などが演奏された。

 エンターテイメントのダンスではなく、自己表現と強く結びついたアートとして「創作舞踊」の礎を日本に築いた邦正美(1908-2007)は、モダンダンスの歴史を通じてよく知られているが、その業績をいまに伝える「邦正美創作舞踊研究所」の研究員が創作した小品集の公演は、生前に邦正美がシアターXの方向性を決定づけるのに助力を惜しまなかったことや、演劇史・舞踊史に配慮を怠らないシアターXならではの演目といえる。(1)杉浦はるみの『審判の日』は、茶色いゴブレット型の椅子の周囲をまわったり、立ちすわりしたりしながら踊っていくもので、椅子に頭をつけて懺悔するような姿勢がくりかえされ、いつかかならずやってくる「審判の日」の感情が表現された作品。(2)高﨑尚子の『表裏一体』は、デュエットを踊るふたりのダンサーの衣装が、前半分と後半分とで茶色と白色を貼りあわされたようになっていて、ふたりが色をあわせたりあわせなかったりするのがそのままダンスになっていく作品。グラフィカルに構成されたダンスが昭和モダニズムに直結していた。(3)小笠原サチ子がソロで踊った『追慕』は、ピコピコというあたたかさを感じるデジタル・ビートがテクノポップ時代の感性を懐古させる作品で、小豆色のロングドレスと波打つ手の動きにいいきれぬ思いが託されていた。(4)最後となった本木歌奈子の群舞作品『口』は、真紅の衣装に身を包んで両手を頭のうえに置き、大きく口を開けて群舞していく様子が、てるてる坊主の集団をみるようでどことはなしに奇怪な印象を与える作品だった。コンテンポラリーの作品で「グロテスク」という言葉を使うことはまずないが、この言葉にモダンの身体イメージがあることは確実で、ここにも邦正美の舞踊詩に潜在する表現主義的なるものに触れる部分があるように思う。

 バス・バリトンの歌手・池田直樹が高木耀子のピアノ伴奏で歌ったオリジナル選曲シリーズは、ダンス公演の多かった芸術祭の最後を飾るにふさわしく、身ぶりが特徴的な楽曲にポイントが置かれたものだったが、歌手とはまんま俳優でもあるということを実証してみせたようなステージで、あふれる才能を惜しみなく歌に注ぎこみながら人生を謳歌している押し出しに感服させられた。なかでもモーツァルトのメロディーによる「阿倍仲麻呂」やドヴォルザークのメロディーによる「池袋デパート物語」など、著名な楽曲を使った替え歌シリーズは観客を大いに沸かせた。

 最後の締めに実行委員の望月太左衛が登場すると、観客全員の唱和とともに三本締めで36日間に及ぶ会を閉じた。(北里義之)


【第16回シアターX国際舞台芸術祭2024|プログラム詳細】

http://www.theaterx.jp/24/images/IDTF2024.pdf

2024年7月21日日曜日

第16回シアターX国際舞台芸術祭2024[19/20日目]: 皆藤千香子『HOPE』2デイズ

 

第16回シアターX国際舞台芸術祭2024
「地球惑星人として、いま」

【19/20日目】

皆藤千香子『HOPE』2 days



皆藤千香子

『HOPE』

コンセプト・振付: 皆藤千香子

ダンス: クリスティーン・シュスター、

ヤシャ・フィーシュテート、アントニオ・ステラ

照明: 濱 協奏

衣装: 磯貝朗子

音楽: オリバー・ベドルフ

写真提供: 近藤真左典


日時:2024年7月19日(金)

開場: 6:30p.m.、開演: 7:00p.m.

日時:2024年7月20日(土)

開場: 1:30p.m.、開演: 2:00p.m.

会場: 両国シアターX

(東京都墨田区両国2-10-14|tel.03-5624-1181)

料金: 前売り/当日: ¥1,000

舞台監督: 宇佐美雅司

照明: 曽我 傑、宇野敦子

音響: 柏 環樹、鳥居慎吾、川村和央

主催: シアターX



 デュッセルドルフを拠点に欧州で活動するダンサー/振付家の皆藤千香子が、本年度もドイツから新作『HOPE』を携えて参加した。出演ダンサーは、過去3回のフェス参加で日本でもすっかりおなじみとなったメンバーで、ケルン音楽大学ダンス科出身のクリスティン・シュスター、ハンブルク出身でパフォーミングアーツで有名な大学連合ダンスセンターで振付の修士号を取得しているヤシャ・フィーシュテット、そしてパレルモ私立劇場で活動したあとフォルクガング・タンツ・ストゥーディオにやってきたアントニオ・ステラの面々。過去に来日の機会をとらえて観ることのできた皆藤作品は、いずれもグルーヴ感のあるいわゆるダンスらしいダンスではなく、抽象的なコンセプトのあるパフォーマンスの印象に近いものだった。皆藤自身が語るところによれば、すべての動きがダンスと呼ばれる可能性のあるドイツのダンス環境で重要視されるのは、むしろこのコンセプトであり、作品を感覚的に受け取ることより理屈が優先される傾向が強いとのこと。

 その顕著な一例としてあげられるのが、昨年の本芸術祭で公演された『奈良のある日の朝』(2023年6月)という安倍晋三暗殺事件を扱った作品だろう。要人の暗殺という日本社会に与えた影響の大きさにくらべ、政治的なテーマを扱うことがほぼないといっていい我が国のダンス界では、おそらく誰ひとりとして考えつきそうもないこのテーマ選択に、度肝を抜かれたものだった。今回の作品は「希望」というもっと抽象的なテーマをめぐってのクリエーションで、作品にはオブジェのようにステージに配置される身体と身体を結ぶブリコラージュ装置が登場した。「希望の原理」を構成するこの装置は、観客席上手側をつぶして長々と置かれた三叉パイプのようなもので、機械といってもどんなものにも似てはいない。息や声といった身体の即物性に依拠した「希望の原理」として、ダンサーたちの関係性を駆動していく後半のマシナリーな場面は、どこかで『流刑地にて』(1914年)のようなカフカの小説に通じていくニュアンスをかもし出していた。


 作品の前半部分で、ダンサーたちは、後ろ向きにステージを歩きまわりながら、床に散乱するオブジェ──重りを布で包んでてるてる坊主のように首根っこを結んだもので、ステージ上に逆さに置かれている──をひとつふたつ摘んでは、肩越しに背後に投げる動きをくりかえしていく。うしろを見ないようにしてバックしていくダンサーがニアミスする場合でも、コンタクトダンスや群舞にはならず、おたがいの腕をとりあっては脇にのけるようにして身体と身体はかりそめの接触しかしない。出会いは生じないのである。公演前半ではこの動きが延々とつづいてダンスはミニマリズムの様相を呈していく。後発するステラは観客に向かって英語で語りかけ、作品を携えて世界を旅する彼らの日々を、日々の反復を「60日間、このように地球を一周し、波とともに上下する。」「さあもう一度はじめよう。」と、希望のようなものを語ってから作品のなかに入っていくのだった。


 これに対して、三叉パイプのような「希望の原理」が登場する後半は、スモークが霧のように立ちこめるなか、メンバー3人がアリーナに降りて、観客席の間を越えていきながら、中央で連結されたパイプに声や息を吹きこむことで、内面のアンサンブルを生産していく場面が展開した。そこにあるのは心的な物語ではなく、生物の気息があるだけという身体の使い方。こうしたコンセプチュアルなありようにもかかわらず、『HOPE』はこれまで観てきた皆藤作品のなかでも、特にダンス的な作品として感じられた。それは振付にたくさんの身ぶりが挟みこまれていたからではないかと思う。前屈して両手を前にまっすぐ伸ばしながら回転するシュスター。あげた両手を昆虫の触角のように細かくふるわせるフィーシュテート。手刀を切るステラ。それらの身ぶりは、単独であらわれては消えていくといったようなもので、ダンサー間の関係性を紡ぎ出すようなものではなかったが、後半部分で、尺八を吹くフィーシュテート、笛を鳴らすシュスターのありようともども、魅力的な響きを立てていた。即物的である動きが魅力的な色や形を持ったというようにして。そんなところにも「希望」は託されていたかもしれない。(北里義之)


【第16回シアターX国際舞台芸術祭2024|プログラム詳細】

http://www.theaterx.jp/24/images/IDTF2024.pdf