2012年3月18日日曜日

新井陽子&入間川正美:焙煎bar ようこ



焙煎bar ようこ
新井陽子入間川正美
日時: 2012年3月16日(金)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000(お茶菓子・飲物付)
出演: 新井陽子(p) 入間川正美(cello)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)


♬♬♬




 複数のシリーズ企画によって月間プログラムを構成している喫茶茶会記のこだわりは、(1)お茶会の議事録を意味する「茶会記」が象徴するように、表現者はもとより、ここに集う芸術愛好家たちが礼節をもって交遊できるような場作り、(2)玄関横のプレートに刻まれた「音の隠れ家」の言葉が語るような、ビンテージ・オーディオとジャズ喫茶に体現されるモダニズムへの憧憬、(3)専用サイトに掲げられた「総合藝術茶房」が宣言するような、開かれた世界を受容しまた切り開くアヴァンギャルド精神の継承だという。茶会記の各部屋は、レトロスペクティヴな家具や電球類で満たされ、訪れた客は、まるで古道具屋にでも迷いこんだような気持ちになることだろう。壁紙はところどころ剥離し、ときには電球のほこりですら、それそのものが失われてはならない記憶ででもあるかのように大切に保存され、懐かしい光を投げかける照明のなか、吹き払われることのない闇とともに、まるで時間が停止してしまったような特別な空間を創出している。時間のとまった場所、記憶の堆積する場所ということでは、SP盤を聴かせる阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロンとそっくりだ。そんな茶会記にひっかけて、コントラバス奏者パール・アレキサンダーは、彼女のシリーズ企画を「にじり口」と名づけ、今回ライヴ・シリーズを企画したピアニストの新井陽子は、「焙煎bar ようこ」というタイトルを選んだ。もちろん新井みずから焙煎コーヒーを出すわけではなく(このように断わるのは、最近そうしたライヴもよくおこなわれるからなのだが)、そのようにかおり香ばしい音楽を奏でるという意味だそうである。

 シリーズ初回ではあるが、茶会記における新井陽子/入間川正美デュオの公演は、これが3度目という。即興演奏の歴史において、フリージャズの時代から様々なスタイルが生み出されてきたのはもちろんのこと、周辺ジャンルとの融合や、楽器改造・新奏法の開発・作曲を超える作曲などによって即興演奏史そのものをゆるがす実験があり、さらに過去の歴史をことさらに参照することのない世代の出現によって、いまや日本の即興地図は、複雑に入り組んだ様相を呈するようになった。いささか分裂ぎみの音楽環境のなかで、新井陽子/入間川正美デュオは、オーソドックスを絵に描いたようなケレン味のない音楽を、のびのびと演奏してみせた。動きはじめたふたつのラインは、ミクロなサウンドを交換しあうときも、抜きつ抜かれつして激しいチェイスをくりひろげるときも、お互いにあわせたり伴奏したりすることなく、鍵盤を激しく打鍵する指の動きの必然性や、弓を激しく動かす腕の動きの必然性にそれぞれが身をまかせつつ、ときにはお互いに気合いを打ちこみ、ときには以心伝心でアンサンブルを構成し、たったひとつ用意された出口へと走り抜けていく。身体的な交感による時間の創出といおうか。共演者の演奏の異質性を意識しなくなるまで、障害物のない無窮動の動きのなかにすべてを投げこんでいくこと。そのために楽譜の小節線のような構造的なものをすべてとりはらう作業が、ここでの即興演奏になっている。

 デュオによる即興演奏の一回一回は、無意識の淵にダイブする瞬間(あるいはこれを人間の自然そのものという言い方もできるだろうか)を持っている。意外に思われるかもしれないが、それはたぶん、ソロよりもデュオのほうがやりやすい。そこに選ばれた共演者がいたほうが、人はよりスムーズに自意識を離れることができるようなのである。それにしても細身の新井陽子が鍵盤を強打するフリー演奏のエレガンスさはどうだろう。セシル・テイラーや山下洋輔のダンサブルな遊戯的身体にかえて、演奏の自然さにどこまでもつきしたがいながら、すっと背筋を伸ばしたままおこなわれる彼女の没入は、そのままですべてを物語っている。第一部の冒頭では、雀が餌をついばむような、あてどない細かな動きでスタートし、第二部の冒頭では、前面の板が外されているため、むき出しになったアップライトのピアノ線を直接指ではじき、ハンマーをおしつけるなどして、プリペアド風のサウンドを加味する演奏からはじめた。入間川も、弓で弦を軽くたたいたりこすりつけたりするノイズ演奏で応戦する。これはこれで、徹底されれば別の音楽になってしまうが、第二部冒頭のこの趣向は、第一部の反復を回避するために登山の入り口を変えるということで、しばらくするとふたりは持ち前の無窮動な動きへと戻っていった。新井陽子は隠し技としてヴォイスを使うこともあるが、この日は横道に入るような演奏は極力控え、シンプル&ストレートな音楽を聴かせたと思う。

 入間川正美のチェロ演奏は、音楽の深みに足をとられることのないよう、ひたすらサウンドの表層を滑走していく。まるで片時も足を休めることなく水上を駆け抜けていく忍法を見ているかのようだ。ノイズ成分が多いため、サウンドのヴァラエティーは音の粒が揃っているピアノよりも幅広く、小回りの利く演奏によって展開もスピーディーになされる。音の立ちあがりそのものも素早く、演奏の仕方によって、皮膚に触れるようなざわざわとした触覚を感じさせることもできる。巨大な打鍵機構を備えたメカニカルな楽器であるピアノにくらべ、この弦楽器は、もっと生々しいものを表現にもたらすのである。その意味でいうなら、「サウンドで一枚の皮膚を編みあげるように」というのは、単なる比喩ではなく、入間川の演奏が備えている感覚的な内容までも言いあらわしている。ピアノ演奏がもたらすダイナミズムとチェロ演奏が生み出す皮膚感覚を織りあわせたデュオの即興演奏は、相手の演奏のダイナミズムにこたえ、皮膚感覚にこたえるなかで、一種のキアスム効果を生んでいった。




-------------------------------------------------------------------------------

喫茶茶会記