四重奏、三重奏
秋山徹次 - 原田光平 - 松本充明
Jacques Demierre - Jonas Kocher - Cyril Bondi - d'incise
日時: 2012年3月6日(火)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,500(飲物付)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)
【第一部】
秋山徹次(g) 原田光平(g, electronics)
松本充明(prepared sitar)
【第二部】
Jacques Demierre(p) Jonas Kocher(acc)
Cyril Bondi(perc) d'incise(electronics, objects)
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「四重奏、三重奏」の開催場所となった四谷の「喫茶茶会記」の他にも、西荻窪の「音や金時」で自主コンサートを主催してきた松本充明は、エレクトロニクスと「プリペアド・シタール」と命名された改造シタールを演奏するアーチストである。「プリペアド」とはいうものの、松本のいう「プリペアド」は、ジョン・ケージ発案のプリペアド・ピアノのように、弦にメタルや木片の素材をはさみこんで音色を変化させ、調性楽器を打楽器化するといったものではなく、シタールの指板があった部分に、チェロかコントラバスの指板をかぶせるようにすえつけ、そのうえに4本の太い弦を張って、元のブリッジのうえに新しく増設した別ブリッジまで張り渡した改造楽器のことである。改造の傷跡深く、なかなか無惨な印象をかもしだしているのだが、あえてケージとの類似点を探すなら、ピアノという西洋楽器の異化に匹敵するインドの民族楽器の異化というくらいであろうか。シタール弦がとりはらわれていないため、この民族楽器ならではのちりめんのような細かなサウンドの震えは、演奏の最中に、その部分に弓をあてれば生み出すことができるようになっている。楽器改造の過程を知らないのだが、もしかすると、もとは異化的なプリペアドをしていたものが、次第に母屋まで乗っ取る形になり、いまではシタールでもないチェロでもない、摩訶不思議なハイブリッド楽器に落ち着いたということかもしれない。
4本弦といえば、同じインド楽器でもタンプーラを連想させられるが、即興セッションのなかで、シタール的な響きの引用であるとか、弓奏による通奏低音、あるいはドローン的な演奏によって音楽構造を作りあげることに対し、松本は極力禁欲的だったように思う。それらはあくまでも通りすがりのようにして演奏されるものとしてあり、さらにいうならば、即興語法の拡大としても採用されているわけではなかった。中村としまるのミキシングボードやSachiko Mのサンプラーがそうであるように、松本の演奏のベースには、演奏へといたる以前の段階で、こうした楽器そのものをオブジェ化するパフォーマンスが介在しているように思われる。ステージにプリペアド・シタールが置かれたとき、すでにそこに「廃物」としての音楽がある、あるいは廃物化された音楽があるといったらいいだろうか。それは同時に、音楽のきわ(limit)を指し示すものであり、美術との隣接点をなすものでもある。このことは、彼の即興観とどこかで結びついているような気がする。
この日の「三重奏」セッションは、エピフォンのアコースティック・ギターで、それこそプリペアドな異化的演奏をする秋山徹次、エレキギターをサウンド・トリガーとして使い、ラップトップ・コンピュータに接続して、ソフィスティケートに変調されたサウンドを生み出す原田光平という、変則的なギター・トリオによるライヴとなった。秋山徹次がその本領を発揮するのは、ゆっくりとした動きで広げられた空間性のなかに、どんな音楽よりも自由度の高いサウンド配置をしていくためのじゅうぶんな距離感が、共演者との間に確保されたときである。ここでいう「空間性」とは、ビルの一室のような、非人称の抽象的な空間ではなく、秋山ならではのパフォーマティヴな領域、すなわち身体化された場所のことを意味している。そこで彼はサウンドへのしんみりとした集中というようなものをおこなう。この集中の深度と、カタツムリが這うようにゆっくりとした時間の移行がそこにあるということを、まずは感覚できるかどうかが、誰であれ、彼の即興に触れたいと望むものの条件になる。それでも、秋山の即興演奏が成立するためには、たとえば中村としまるのような他者が、そこにやってこなくてはならないのだが、サウンドを即興的にディスプレイしていく松本も原田も、そこに生まれる響きを超えて、そのような秋山の身体性と触れあうような身体性を立ちあげるタイプの演奏家ではなかったように思われる。
間欠的に鳴らされる断片的なサウンドが、それぞれの池に投げこまれながら、セッションは静かに進行していった。直接対話を回避するようなサウンド・インプロヴィゼーションにおいても、異質な共演者との距離感が確定するまでの過程を即興演奏で聴かせるということはあり、またお互いの集中力が深度を増していくに従って、最終的に(意識の底をなすような)ある地点にたどり着くという即興演奏もある。このとき対話は必ずしも必要ない。あるいは対話のあるなしは問題にならない。わかち持たれるものがサウンドを超えて広がっていくからである。ただそこには即興演奏に物語を与える行為が存在している。それぞれの池を抱える「三重奏」のセッションが、おそらくこうした物語を描き出すことに失敗したためだろう、後半の大団円にあたる時間帯に、三人はそれぞれの池を荒く波立たせる演奏で(強引に)形をつけた格好になった。そうする必要があったのかなかったのか、ギター・トリオはそうしてしまったというしかないが、これはクリシェと呼ぶべき凡庸な結末のつけかただったと思う。■
※写真はいずれもサウンドチェック時に撮影されたもの。本番の秋山徹次は、いつものように、黒いスーツ姿に目深にかぶった黒い帽子という、「ルパン三世」に出てくる殺し屋 “次元” のスタイルで演奏した。
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