2012年3月17日土曜日

秋山徹次&池上秀夫@戸越銀座 l-e



池上秀夫、秋山徹次デュオ
日時: 2012年3月15日(木)
会場: 東京/戸越銀座「l-e」
(東京都品川区豊町1-3-11 スノーベル豊町 B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+order
出演: 秋山徹次(g) 池上秀夫(contrabass)
問合せ: TEL.050-3309-7742(l-e)
※電話はライブのある日の午後5時以降にお願いします。


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 阿佐ヶ谷ヴィオロン(2009年3月6日)、門仲天井ホール(2009年10月31日)、八丁堀 七針(2010年3月12日、8月13日)、戸越銀座 l-e(2011年11月25日)というように、いくつか小屋を変えながら持続してきた秋山徹次/池上秀夫デュオの演奏は、2011年3月をもって閉店した千駄ヶ谷ループラインが規模を縮小して再開した戸越銀座の「l-e」(スペースの名前は、Loop Line の頭文字と尻文字をダイレクトにつなげたもの)におけるこの晩の二度目のライヴが6回目のセッションとなる。スノーベル豊町ビルの地階にオープンした「l-e」は、JR線の大崎駅や、池上線の戸越銀座駅、都営浅草線の戸越駅などが最寄り駅となるので、路線利用者により大崎 l-e、あるいは戸越銀座 l-e というように表記されるが、そのどちらからも等距離の中間地点にある。それでも、複雑に折れ曲がる住宅地を丘越えしてたどり着く大崎ルートに裏道の印象があるのにくらべると、駅からの距離はあるものの、谷底の町として知られる戸越銀座商店街を直進したはずれに位置するという、わかりやすさと町の裏表の顔という点で、「戸越銀座 l-e」という呼び方に、軍配があがるのではないかと思う。事実、「谷底の町」の名前通り、ミュージシャン仲間が総出でおこなった店舗改装の際には、谷底ゆえの地下水が原因となった湿気の処理に苦しめられたという。ゆったりと座席に座って10人、みっしりと座布団に座って30人というのが限界のマイクロ・スペース。コンクリートの床にはマンホールがあり、そこを開けると、漆黒の闇からエコーを返す共鳴ボックスになるという。つまり、観客が踏みしめる地階の床もまた、さらに地下へと伸びる空洞のうえに架かるコンクリートの板に過ぎないのである。

 インプロヴィゼーションのユニットではあるが、秋山徹次/池上秀夫デュオは、ちょうど漫才のボケとツッコミのように、演奏における役どころが固定しているので、フリー・インプロヴィゼーションの起源がデュオにある(に違いない)ということに加え、演奏のたびごと、その内容はさまざまでありながら、とても安定した関係性が築かれているように思う。リダクショニズムの経験を経ている秋山徹次は、即興語法は多彩でも、ゆったりとした時間感覚のなかに、フレーズの断片化による省略の美学をもって空間性を開いていく場合と、この晩の第二部の演奏のように、フレーズはやはり断片的ながら、リズムを凝縮し、非常に攻撃的にサウンドをたたきこんでいく場合がある。ノエル・アクショテが来日したときのデュオ演奏で、この老獪なポストモダニストの懐をこじ開けようとしてみせた攻撃性など、記憶に残るとても印象深いものだった。秋山がこうしたアプローチをするとき、演奏は次第に過激化したときのデレク・ベイリーに近似するようになる。

 そのようにして環境設定された場のなかに、池上秀夫がやってくる。性格的にも、楽器特性のうえでも受けの池上は、以前記したように、マルチ・イディオマティックな言語の混成体としてあるベーシストだが、デュオでは、なにかをもって秋山の演奏にこたえようとしているようだ。くゆらすような弦の響きを持続する池上のミニマルなサウンドからスタートしたこの晩の前半は、ふたつの雨だれが無関心を装って偶然のリズムを描き出すような静かな演奏へと移行し、最後には、ふたたびノイジーなコントラバスの弓奏へと戻って幕をおろした。後半は、うって変わった激しい展開になるよう秋山がつけた注文に、池上はベースサウンドを直接ぶつけることなく、ゴーッ、ゴーッというカバのあくびを思わせる、野性的かつノイジーな低音弦の弓奏で応じた。断片的なサウンドで、そのつどの瞬間瞬間を立ちあげては消していく秋山と、視覚ではとらえられない千変万化する持続を、コントラバスの弓奏のなかにとらえてみせる池上の際立った対照性は、いつ聴いても刺激的なものである。

 あらわれは通奏低音のようであっても、フリー・インプロヴィゼーションにおいては、本来的に、それが音楽構造のベースをなすわけではなく、どこにも帰属先のない表層的なサウンド(適切な使用を待って意味をなすような即興語法)として認識される。秋山が池上の弓奏をバックにソロ演奏しようとしない理由は、こうしたところにある。であるはずなのだが、池上秀夫は、演奏の落としどころをイメージする場合、こうした音楽構造に依拠してしまうケースがままあるように見受けられる。音楽構造から響きが離脱した状態が、「表層的」といわれる音の様態だが、それは決して技術的なもの、手法的なものにとどまらず、音楽に対する破壊衝動やサウンドに対する新たな欲望を発見したり開発したりすることと不即不離の関係にある(はずである)。端的に言うなら、これこそが秋山徹次がしていることのすべてだといえるだろう。新たな感覚をサウンドに結びつけるという、一度しかないという意味で即興的でもあれば、感覚を媒介するという意味で身体的でもあるような創造の作業。かたや、フリー・インプロヴィゼーションする池上秀夫の演奏が、安定的であり、伝統的なコントラバス演奏に聴こえる理由は、こうした音楽形式や構造を重視する(換言すれば、演奏の根拠を持とうとする)点にあるのではないかと思われる。

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