坂田 明+八木美知依+本田珠也
日時: 2012年3月23日(金)
会場: 東京/新宿「ピットイン」
(東京都新宿区新宿2-12-4 アコード新宿ビル B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥3,000(飲物付)
出演: 坂田 明(as, cl) 八木美知依(el-21絃箏, 17絃ベース箏) 本田珠也(ds)
予約・問合せ: TEL.03-3354-2024(新宿ピットイン)
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第二部のMCで坂田明は3.11の話をした。一周年直後のこの時期ではあるし、雨の日ではあるし、震災前から、「がんばらない」「あきらめない」の鎌田實が主催している日本チェルノブイリ連帯基金に助っ人していたこと、あるいは被災地に入ってのコンサート、なかでも坂田だけでなく、この晩のメンバー全員にとって記憶に残るのは、2011年11月にオーストリアのヴェルスで開催されたミュージック・アンリミテッド祭が、70歳になったペーター・ブロッツマンの業績を称えて開いた「ロング・ストーリー・ショート」のなかに、坂田明や八木美知依も参加した「フクシマ・プロジェクト」があったことだろう。そもそもこの音楽祭は、日本との関係が深いブロッツマンの思いを汲んで、日本人ミュージシャンのためにおこなわれた側面を持っていた。こうした諸々のことが重なって、全身全霊のフリージャズ、フェイク平家物語、鳥取民謡の「貝殻節」と、これまで親しんできた坂田明の世界に、もうひとつなにかが加わったように思う。余震による4号機の崩落という危機的な状態に、いまも東日本に住む私たちがさらされていることは等閑視できないものの、フクシマの経験は、もはや日本だけのものではない世界のものになっている。それでも出来事というものは、坂田明の音楽のように、個人の思いからなされることの少しずつの積み重ねによって、日常的な世界で少しずつしか進行していかない。
八木美知依の箏が奏でる和の世界は、邦楽をしているときよりも、彼女の身体的な表出が関わるフリージャズの環境にあるとき、(たぶん共演者が日本人ということも手伝って)驚くべき親和力を発揮する。技術的な修練や新たな奏法の開発に努力しているということもあるのだろうが、このトリオで聴くことができたのは、彼女が箏という楽器との関わりで培ってきたもっと感覚的なものである。サウンドの原石や土塊をあえてむきだしにしようとする坂田の野生に、これまでどんな演奏家も与えることができなかった色合いを与えてみせるのである。身体を激しく前後させ、楽器に体当たりするようにして演奏されるフリージャズでも、イマジネーションが鍵となるバラッドに色を添えていくときでも、それがうまくはまっている。このことはつまり、たとえジャズ的なムードは出せなくても、これまで積み重ねてきた多くの共演を下敷きに、フェイク平家物語を語り、貝殻節を高唱することで坂田が求めているものに、別の形と世界の広がりを与えているということではないだろうか。このようにいうと誤解されるだろうからであえて付言しておくと、ここにはありきたりの日本回帰もないし、日本人による自己植民地化であるジャパニズムもない。仮構される日本的伝統からの私的な流用しか存在しないのである。そしておそらくそれが個人において起こることのすべてである。このことを絶対的に肯定してみせるのが坂田明の音楽だといってもいいだろう。
本田珠也のドラミングは、坂田明と八木美知依という、オリジナルな世界を持った演奏家たちを相手にしながら、演奏スタイルにしても楽器の選択にしても、奇を衒うような部分はいっさいなく、むしろストレートすぎるほどストレートなもので応じていた。共演者の感情の動きに大きく憑依することなく、少し離れた地点に立って、多彩なリズムをつぎはぎしながら状況への即応力をみせるといった印象。楽曲の冒頭で、八木が通奏低音のようにして21絃を弓奏しつづけた「貝殻節」では、ホースをふりまわして風を切る幻想的な音を入れるなど、サウンドの選択にも光るものをみせた。ちなみにこの「貝殻節」は、坂田の土塊のヴォイス、静かな海が目の前に開けているようなノイジーな箏の絃(ハーディガーディを連想させる)のたゆたい、やがて潮騒のように入ってくるミニマルなシンバル音、坂田と本田のアフリカ的コール・アンド・レスポンス等々、過去に何度か演奏したことがあるのだろう、異質なるものを絶妙のバランスのなかにとりまとめて聴かせた名演であった。
メロディーを支える本田の長尺のドラムロールが印象的だった「浜辺の歌」を最後に演奏したのも、MCのなかで坂田が語った、被災地で見たという津波が襲ったあとの夜の海岸線に重ねてイメージされるものだった。静かな出だしから、やがて坂田と本田が激烈なフリージャズに移行したあと、八木がそこだけぽつんと取り残された場所のように、もう一度メロディーをたどってみせるという構成で、あんなに激しいフリージャズを演奏しても、いたって静かな印象をもたらしたこの晩のコンサートは、明言はされなかったものの、あるいは演奏者にそうした意図はなかったかもしれないが、おそらく事実として3.11へのレクイエムだったと思う。そのことがあったからこそ、八木美知依の箏の弾奏が、この晩は自然のイメージと密接につながって聴こえてきたのではないだろうか。そうした感覚とともに伝えられてきた邦楽器のサウンドには、やはり日本人の自然観を触発する文化伝統が、いまも深く埋めこまれているということなのであろう。■
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新宿ピットイン