2012年3月2日金曜日

鈴木 學・広瀬淳二・池上秀夫



鈴木 學・広瀬淳二・池上秀夫
日時: 2012年3月1日(木)
会場: 東京/入谷「なってるハウス」
(東京都台東区松が谷4-1-8 1F)
開場: 7:00p.m.、開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000+order
出演: 鈴木 學(electronics) 広瀬淳二(tenor sax)
池上秀夫(contrabass)
問合せ: TEL.03-3847-2113(なってるハウス)


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 エレクトロニクス、テナーサックス、コントラバス──ベーシスト池上秀夫の呼びかけで集まったユニークな楽器編成のこのトリオは、2011年8月の七針公演から活動を開始、その後、場所を入谷のなってるハウスに移してこれが3度目のライヴとなる。世話役を池上が務めているが、特別にリーダーを置かない即興トリオで、事前の打ちあわせなどはいっさいなし、「自由即興」と短縮形で呼ばれるようになった現代の即興演奏が概ねそうであるように、ジャズから実験音楽、エレクトロニクスまでの幅広い音楽領域を参照しながら、ポリグロットに(多言語的に)編みあげられるサウンド空間といったものを即興演奏で実現していく。重要なのは、それがすでにフリー・インプロヴィゼーションではないということだろう。そこには、かつて音を聴くときのよりどころであった音楽ジャンルの壁に対して異他的であろうとし、異議申し立てをすることで、より創造的なサウンドの領野を開いていこうとして、即興演奏に「越境」という特殊な意味づけをした、あの肩に力が入ったような不自然さは、すでに微塵もなく、すべてがごく自然に、ひとつらなりのなめらかな流れのなかで演奏されていた。すなわちこのトリオは、1980年代に盛行を極めたポストモダンを歴史的に通過してきたミュージシャンたちが、即興演奏の歴史性を踏まえながら、ジャズに回帰するのでもなく、即興演奏の彼方に観念的な越境をするのでもなく、その間に浮遊しながら、それでもやはりその後に開くことのできた世界としか言えないようなものを開いているのである。

 トリオ・インプロヴィゼーションに浮遊感をもたらしたものは、三人三様の演奏スタイルからくる距離感ではないかと思う。前言したように、それは自然に生じた距離感であり、あえて共演者の演奏の対極に向かおうとしたというような、意図的なものではない。エレクトロニクスは、鈴木學が演奏の手をとめているときは別だが、細分化されたノイズが、フリージャズのパルスに相当するような、急速度の時間感覚をつねに放出する状態にある。フレーズといったようなものはなく、水道の蛇口を開け閉めするような、水流のコントロールだけがある。対照的なのがサックスの広瀬淳二で、ロングトーンで吹かれる一音が、トリオのなかで最も動きのない音を生み出しているようでいて、じつはこの楽器ならではの金属的なノイズとブレンドされ、複雑な倍音演奏をしていくなかで、ノイズ成分が増すにつれてエレクトロニクスと拮抗するようなスピード感を帯びはじめるという、思いがけない音響のアンサンブルを聴かせるのであった。広瀬のサックス・ソロが、そのままそこにあるといってもいい演奏内容だと思うが、エレクトロニクスとの拮抗を生むこのサウンド・インプロヴィゼーション(音響的即興)は、基本的に、ジョン・ブッチャーのミニマルな万華鏡サウンドとおなじアプローチといえるだろう。

 別の場面で、広瀬はジャズ的なフレーズのある(ときにフリージャズ的な)演奏もするのだが、そうなると、今度は、フレーズを介した池上秀夫のコントラバスとの親和力が前面に押し出され、トリオの関係性は一瞬にして変化する。もちろんここで起こっていることを正確に表現すれば、トリオがジャズを演奏したというより、ジャズ的な記憶の片鱗のあらわれと受け止めたほうがいいであろうし、池上の演奏もまた、事実として、マルチ・イディオマティックな混成体としてあることに変わりはない。むしろアルコからノイズまで、あらゆる演奏スタイルを投入して弾きまくる池上の演奏は、このトリオでしか聴けないのではないか。少なくとも私自身は、他で聴いたことはない。フリー・インプロヴィゼーションにこだわるがゆえに、ジャズの記憶を拒絶するというのではなく、流れのなかでそれが自然であれば喜んで迎え入れるという姿勢が、音楽という出来事をもう一歩先に進めるように思う。

 トリオの演奏は、ジャズ的なものに接近するたびごとに「表現」的なものとなり、ノイズ的なものに接近するたびごとに「即物」的なものとなる。エレクトロニクスが表現的な演奏の背景に押しやられ(あたかも何事かを表現しているように聴こえ)ることもあれば、表現がすべてエレクトロニクス的なものへと解体し、(まるでなにも表現などしていないように聴こえる)即物的なサウンドの応酬に終始することもある。この双方の領域を往還しているのは、広瀬淳二のサックス演奏だけだ。越境というより、ここは自由に行き来しているというべきだろう。鈴木學の演奏は、演奏のように見える操作であり、前言したように、あえていうならば「水道の蛇口を開け閉めするような」ものである。もちろんそれは音楽的ではない、ということではない。重要なことは、私たちの耳に出来事が生じるかどうかということだからだ。これとは逆に、池上秀夫は、ノイズ演奏をしているときでも表現的である。おそらく鈴木と池上の間にはいまだ通路がない状態だろう。このサウンドの非対称な関係は、鈴木がメンバーとなっている今井和雄トリオでも、(こちらは意識的なバンド・コンセプトとして)採用されている。このようにして、いくつもの現代即興の条件をあえて引き受けたこのトリオは、これからどのような即興演奏を生み出していくのだろう。

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なってるハウス