2012年3月19日月曜日

パール・アレキサンダーのにじり口 with 鶴山欣也



Pearl Alexander presents "Nijiriguchi"
パール・アレキサンダー:にじり口
with 鶴山欣也
日時: 2012年3月18日(日)
会場: 東京/新宿「喫茶茶会記」
(東京都新宿区大京町2-4 1F)
開場: 2:30p.m.,開演: 3:00p.m.
料金/前売り: ¥2,300、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: パール・アレキサンダー(contrabass)
鶴山 “ZULU” 欣也(butoh dance)
予約・問合せ: TEL.03-3351-7904(喫茶茶会記)


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 すでに常識ではあるが、あらためて確認すると、即興演奏家とダンサーの共演は珍しいものではない。ダンサー自身が音を出しながらソロ・パフォーマンスするケースもあり、その意味では、他ジャンルの表現者との共演というのは、そのいちいちを音楽的な言語に翻訳しておこなわれる即興演奏(これまた周知のように、即興演奏というのは、一般的にいって、イディオムと呼ばれる固有の言語の習得およびその使用法と深くかかわる表現形式である)とは違い、サウンドと身体がステージ上にならべられ、その “瀬戸際” がむき出しになるため、演奏家までもがひとりのパフォーマーへと変成し、観客にも直接的な身体の開けをもたらすことを特徴とする(ように思われる)。あるいは逆に、音を聴くという時間経験が視覚に圧倒されることで、自由であるはずのイマジネーションが、目の前に立つ表現者の身体に縛られてしまうということも生じる。身体の形、動きの形、足のひと運び、身体の方向というように、私たちの身体は、あらゆる瞬間に時間を空間へと翻訳しつづけているからだ。「アンドロメダ」を公演したパール・アレキサンダーと柿崎麻莉子のコンビは、コンポジションすることによってパフォーマンスに物語性を持ちこみ、身体表現もつねに時間のなかにあることを観客に意識させていた。ベーシストが喫茶茶会記で主催している「にじり口」シリーズ第一期の最終回となったこの日の公演には、過去に何度か共演経験のある舞踏の鶴山 “ZULU” 欣也が迎えられ、「アンドロメダ」のような物語的要素のない即興セッションを、通常のライヴのように第一部と第二部に分けておこなった。

 禿頭に白塗りという舞踏ならではの出で立ちをした鶴山に趣向があり、第一部では、さらさらと肌触りのよさそうな白い布を両肩で止め、ポンチョのような、お化けのQ太郎のような格好で、指先までの全身をいっせいに動かせてみせるミニマルなパフォーマンスをし、第二部では、サングラスにパジャマという、意図的にミスマッチな取りあわせの衣装で、ミクロなダンスに重きを置く第一部とはうって変わった展開をみせた。小道具のサングラスがダンスに演劇的な要素をつけ加えるため、私たちはどうしても役者的な存在をそこに見てしまう。何かを演じていると、頭が勝手に “解釈” してしまうのである。パジャマのような衣服のモードは、それだけで強い意味を発する記号であり、表情を隠すサングラスは、第一部で見せたような喜怒哀楽の感情がつくるダンスを殺し、かつ覆い隠す機能を持っている。舞踏について無知なままでいうのだが、まるでアジアの僧侶を思わせた第一部の出で立ちは、すべての記号的なるものを捨て、身体の動きだけに視線をフォーカスするよう要請する約束事なのではないかと思う。ダンサーがもし全裸になったとしたら、おそらくむきだしになった筋肉や骨が、見るものに視覚的な意味を投げかけることだろう。身体にまとった一枚の布は、動きに還元された身体が投影されるスクリーンのようなものと言ってもいいかもしれない。

 このようなシチュエーションのもとでパフォーマー化される即興演奏家は、もし光のもとに出現する身体のための伴奏をするのでなければ、いったいなにをすればいいのだろう? 楽器を弾くことをダンスとしておこなうことだろうか(そういえば彼女はいつもより激しい動きをしていたし、それを「ダンサブル」ということができるかもしれない)、身体のミクロな動きや表情、感情などをトレースして舞踏家とコミュニケーションすることだろうか(たしかに彼女は「baby」と呼んでいつくしむ楽器を手のひらで撫でさすり、いつもはサウンドの下に隠されている触覚のような皮膚感覚を立ちあげていた)、フレーズの固定や反復を回避し、形式のないノイズのようなサウンドを解き放つことだろうか(他のミュージシャンと共演したりソロ演奏したりする場合と違って、この日の彼女の演奏は、間違いなくゆくえさだめぬ動きそのもののなかにあった)、しかしながら、そのどれもでありながらそれらを超えるものもそこにはあった。演奏するたびごとに腕をあげていく上り調子の演奏家のきっぷのよさといおうか、威勢のよさといおうか、いざという瞬間に物怖じしない度胸のようなものである。柿崎麻莉子には、パフォーマンス環境を整えるような演奏をしていたアレクサンダーは、鶴山欣也に対して、細部を射抜く視線を放ち、ほとんど挑戦的といえるような音を投げかけていた。

 照明はきちんと調整されていなかったらしいが、(偶然にも?)ステージセンターにあたる部分に光があり、舞踏家はそこにたどり着くまでをパフォーマンスの導入部にした。ダンスは光のなかにあり、サウンドは影のなかにあった。舞踏家が光のなかに入っていない段階で、演奏家は演奏を変えてしまう。たぶん彼女は舞踏家の動きに集中して、光が偶然に作り出す構造を見ていなかったのではないかと思う。「にじり口」の初回、中村としまるがしてみせた前半の寡黙な演奏に、方向を見失った彼女もいた。しかしこのような “ずれ” もまた、出来事を豊かにするように働かせてしまうのが、即興演奏の醍醐味である。パール・アレキサンダーと鶴山欣也は、15分休憩をはさみ、30分強のステージをふたつ続けて完走した。それにしてもパール・アレキサンダーの生み出すアルコのノイズはなんと豊かなことだろう。デレク・ベイリーの演奏が、ギターから前代未聞の音楽を生み出すサウンド断片でありながら、なおもそれをこのうえなくギターらしいと感じさせる手腕を持っていたのとおなじように、彼女の演奏は、倍音成分の響かせ方に分厚い伝統を感じさせる正統派のインプロヴィゼーションだ(矛盾した言い方だが)といえるだろう。



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喫茶茶会記