2012年7月11日水曜日

上杉満代+河合孝治@間島秀徳展




間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」
── 第五夜:上杉満代河合孝治 ──
日時: 2012年7月9日(月)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500、学生: ¥1,500、通し券: ¥10,000
出演: 上杉満代(舞踏) 河合孝治(computer)



♬♬♬



 キッドアイラックに展示された円柱の「KINESIS」には、478番目の作品に「climbers eye」、また479番目の作品に「divers eye」という対照的なタイトルがつけられている。「登山家の目」と「潜水夫の目」。二本の円柱のうち、表通りに近く、瀧が流れ落ちているように見える部分があることから、きわだった垂直感のあるものが後者、奥まった位置にあって、無数のちぎれ雲の間から群青の海面がのぞいているように見える部分をもつのが前者である。番号の連続は、ふたつの作品が対になってイメージされたこと、制作されたことを示すものだろう。しかも登山者や潜水夫は複数形になっている。すなわち、彼らはたくさんおり、タイトルは数かぎりない登攀と数かぎりない潜水によって浮かびあがってきた地図についてなにごとかを言おうとしている。水墨、顔料、アクリル、大理石の粉などが麻紙のうえに描き出す痕跡は、流体としての水が、生命エネルギーとしてその場所を実際に通過していったことの証言だ。その意味では、作品の本質そのものが、近代的なひとつの視点を仮構しないという意味での無名性を、作家にも観者にも要求している。そうした要求に従うかのように、間島秀徳の視線は複数の間島秀徳のものであること、麻紙のうえで作品への数かぎりない登攀や潜水がくりかえされたことを、これらのタイトルはいおうとしているということであろう。一枚の地図を思わせる平面へと最終的にたどりつくことが、ではなぜ「登攀」や「潜水」にたとえられるのだろうか。もしタイトルが直感的に選ばれたものだとしても、そこには作品の本質を浮き彫りにしてくれるような、なにがしかのヒントが隠されているように思われる。

 上杉満代のダンスは、こうした KINESIS 作品に対し、いわば一種の “みたて” をおこなうことでアプローチしようとしたように思われる。二本の円柱がそびえたつ展示空間は、まるで古びたタイル張りの支柱に支えられた地下鉄の構内だとか、女が恋人を待つ映画街の一画のような劇的空間へと読みかえられる。それ自身が映画の一場面であるかのような幻想の劇場で、下手からゆっくりと登場した舞踏手は、絶望的なものに思えるある身体のドラマを演じる。上杉のおこなったこの “みたて” は、しかし作品を舞台装置化するような “誤読” ではなく、ある環境のなかに置かれて初めて意味を獲得する KINESIS 作品の本質に沿うものだろう。道を逆にたどれば、地下鉄構内の薄汚れたタイル張りの支柱に、別の世界への扉を開く謎の文様が書きこまれていたというようなSF的想像力がありうるということである。エレガントな退廃美をもって「登山家」の円柱にもたれかかる上杉満代の身体は、展示空間をそのような意味にあふれた劇的な場面へといっきょに転換する。動きがなんの説明をほどこすこともないうちに、彼女の身体のありさまが、見知らぬドラマを両腕いっぱいに抱えたまま、いまにも昏倒しそうにそこにたたずんでいることを告げるのだ。上杉のドラマが生きられるのは、ふたつの円柱の間、ほんのわずかの空間である。

 サウンドアーチストの河合孝治が、コンピュータの音響ファイルによっておこなったコラージュふうの演奏は、プロセスワークを経ないストレートな(基本的に加工をほどこさないために音源の特定ができる)音響と、一時期よく耳にしたシンセサウンドからなるもので、エレガンスと退廃をあわせもつ上杉満代の身体表現に、レトロスペクティヴな味わいを添えていた。長い沈黙の間をはさんで、前後半にわかれた演奏は、前半では作曲家でもあったという哲学者ニーチェの曲が、後半では、ダンサーの要望にこたえて、最後のシーンで「アベマリア」(ピアノ伴奏された混声合唱のテープを使用)が引用されたとのことであるが、特に前半は、水の音やししおどしの竹の音などを使って、20世紀芸術の金字塔であるシュルレアリズムの美学「手術台の上のミシンとコウモリ傘の衝撃的な出会い」を地でいくような演奏になっていて、1980年代以降のプランダーフォニックスではなく、古きよきヨーロッパ前衛芸術をこだまさせるものとして響いた。すべてが失われた世界、すべてがもう音響ファイルの記憶のなかにしか存在しない世界が、コラージュという伝統的な手法によって豊富に引用されたという印象は、そんなふうに感じてしまうみずからの耳のありよう自体に驚くべきなのかもしれないが、そこに死の想念をもたらすような重々しい空気をかもしだしていた。

 無駄話をして時間をつぶせるような友人もなく、いつまでもやってこないゴドーを待ちながら、百年の孤独を過ごしてしまった女のように、ダンサーは床にはいつくばり、身体をあおむけにしてのけぞる。上杉がそうするのは、二本ある KINESIS の柱の「潜水夫」に近い場所。KINESIS がエンタシスに見えるということもあって、まるでギリシャ劇さながらの神話的ドラマを見るようだった。この晩の上杉満代のパフォーマンスで、もっとも挑発的だったのは、微動だにせず一点を見つめていたその顔ではなかったかと思う。ダンサーが観客に近い場所を移動していくとき、(おそらくは形式的なものを採用して)しばしばそうした遠方を見つめるような視線の置き方をするが、彼女がしていたのは、それとはまったく違うもので、まるでどこも見ていないという視線だった。あるいは自分の内面のすべてをあまねく照らし出す、無慈悲な灯台のような視線といったらいいだろうか。そこにもまた、ある種の絶対的な身体の投棄があったように思う。そこにあった顔は、エロチシズムという、男性の妄想のなかにしか存在しない一般的でもあれば凡庸でもある解釈をやすやすと超えてしまう、もうひとつの(というよりは究極的な)身体の場そのものだったからである。



   ※2012年7月31日に最終改稿。
   ※舞踏家の写真は、いずれも写真家の小野塚誠さんからご提供いただきました。感謝いたします。

-------------------------------------------------------------------------------