間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」
── 第七夜:相良ゆみ+飯田晃一+竹田賢一 ──
日時: 2012年7月11日(水)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,000、当日: ¥2,500、学生: ¥1,500、通し券: ¥10,000
出演: 相良ゆみ(舞踏) 飯田晃一(舞踏)
竹田賢一(大正琴、その他)
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ここでいったんまとめれば、「崇高の美学」でいわれる「崇高」の感覚というのは、大自然を目の前にしたとき、言葉を奪われ、めまいや恐怖の感情をともなって圧倒されるような出来事に襲われることであった。そこに崇高なるものに対する表現の不可能性が感じられているからこそ、登山や潜水によるそうした世界への侵入が、表現(という欲望)の狂気でもあり、同時に、神聖さでもあるような価値観を生んでいくということである。崇高なるものへの接近によって作品そのものが光を帯びはじめ、磁場のように、いくぶんかのエネルギーを帯電するようになるといったらいいだろうか。みずからを土中を掘り進む盲目のもぐらに擬したドゥルーズ=ガタリの「リゾーム」概念は、このような彼方に見える神的なるものの再生産を回避し、人間がどこまでも触覚的な世界を生きていることを、縦横に土中を走る根茎のような錯綜するテクスト群によって、あらしめようとしたものと考えることができる。対立するこのふたつの世界観が、どうやら KINESIS シリーズには、ふたつながら持ちこまれているように感じられる。というのも、登山家や潜水夫が見るような作品は、全体を俯瞰しなくては成立しないにもかかわらず、実際に私たちがそこで見るのは、どこまでも部分の集積か断片のようなものでしかなく、完成された作品を世界(のビジョン)につなげるためには、展示における建築学的配慮が必要になってくるという事態が、ここで起こっていることではないかと考えられるからである。「日本画」という概念自体が、絵画にナショナルなイデオロギーを持ちこむ点で、モダニズムの産物といえるものだが、間島秀徳の KINESIS シリーズは、そのような日本画におけるポストモダン──すなわち「日本画」を超えるもの──と呼ぶべきものと、東洋における崇高なるものの回復というモダニズム再興を、背中あわせにした作品群ではないかと思われる。
間島秀徳展「KINESIS──時空の基軸」最終日には、大正琴の竹田賢一がサウンド構成を考え、ダンサーの相良ゆみと飯田晃一が、場所をわけあったり、動線をクロスさせたりしながら舞踏するという、多焦点のパフォーマンスがおこなわれた。会場のあちらこちらで、いくつもの出来事が同時多発的に起こっていく。あるイベントに気をとられると、他の場所で起こっていることが見たり聞いたりできなくなる。長谷川六のソロ・パフォーマンスという転調に、さらなる転調を重ねるプログラム構成は、一週間の間島秀徳展にダイナミックな効果をもたらしたと思う。ジッポライター大のボイスレコーダーを10個ばかり用意した竹田賢一は、演奏をはじめる前に、それらを会場のあちこちに配置した。手元には大正琴とコンピュータ音源、さらにアジアの竹楽器(これはダンサー用のもの)を用意したが、終演後の雑談のなかで、円柱表面の文様にふさわしいサウンド構成を心がけたといった。まさにそのように音量は低くおさえられ、会場全体がざわざわとする暗騒音のなかで、観客は聴覚を分散され、ふたりのダンサーのパフォーマンスを、脈絡のない同時多発イベントとして体験することとなった。ふたりのダンサーは、円柱の周囲はもちろん、会場のいたるところで踊った。音響ブースのある階上のテラスに登ったり、クライマックスで表通り側の扉を開けるなど、このホールを最大限に利用しつくした。
明快なステージのない状態、あるいは演奏が聴かれても聴かれなくてもいいような状態、すなわち、サウンドが音を聴こうとする耳の背後に退いていく暗騒音のざわめきのなかで、ダンサーの身体は、響きとの間に図と地の関係を描き出し、観客の意識の前面に突出した。竹田賢一のサウンド構成が、時間的に進行することのないプール状態にあったため、ふたつの身体が描き出すそれぞれの出来事のセリーこそが、音楽的なものを提供することになったといえるだろう。逆の方向からいうなら、竹田賢一の演奏は、文字通り、KINESIS の表面に擬態していた。かたや相良ゆみの舞踏は、尻から細い糸を出しながら歩行する蜘蛛のように、けっしてからみあうことのない一本のラインのうえを、するするとすべるように流れていく。身体の動きを先導するように大きく広げられる彼女の両手は、息をのむほどにダイナミックで、身体の潜勢力をたたえた魔術的なものだった。相良のアルカイックな顔立ちを生かすくすんだオレンジ系の和服は、KINESIS 作品の水のイメージに対置された火のビジョンを帯びていた。火の国の巫女は、和服の下に薄い水色のシュミーズをまとい、パフォーマンスの途中で和服を脱ぎ捨てると、蛹が蝶に変態するように、火のイメージから水のイメージへと変化した。即興的パフォーマンスというより、これはひとつの構成美を見せるものだったろう。
流れるような相良のラインとは対照的に、飯田晃一のダンスは、スムーズな時間の流れを切断する突発的な出来事を、次から次へと招き寄せていくものであり、場面を交換していく演劇的要素の強いパフォーマンスだった。開演するなり全裸になることを手はじめに、床のうえで全身をバタバタと痙攣させ、シャツ姿で階上のバルコニーから大音声で絶叫し、高尾山のご朱印帳を両手にもって、階下にいる観客の頭上でひらひらとさせ、さらにそのままスタッフ用の通路をたどると、下で踊っていた相良の頭にご朱印帳を落とし、ふたたび階下に戻ってくると、今度はステージ中央で断髪式をはじめ、切った髪の毛で相良とひとつの場面を作ると、ふたたび全裸になってカメラマンのフラッシュを浴び、クライマックスの場面では、相良とともに表通りの扉を開け、誰にともなく「行こう!」と呼びかけるなど、盛りだくさんのアイディアを詰めこんで、一時間を疾走しつづけた。出来事はあらかじめ出来事なのではなく、状況のなかである強度を持つにいたるとき、私たちの世界を構成するこの時間を切断するものとして、世界の外部からやってくるというようにいえるものと思うが、これらのアクトは、ダンス・パフォーマンスだけが引き起こすことのできる身体的な出来事というより、前述したように、様々な演劇的アイディアをコラージュしたもののように感じられた。
二本の円柱がそびえる神殿のような KINESIS の磁場に対して、ノイズが暗騒音のようにざわめくサウンド構成をした竹田賢一は、みずからも磁場の一部に擬態することで対立を解消し、巨大な蜘蛛のように会場を優雅に歩きまわった相良ゆみは、じっくりと時間をかけて二本の円柱の間に無数の糸を張りめぐらしていき、高天原で暴れまわるスサノオそのものだった飯田晃一は、KINESIS の磁場から逃れようと万策を尽くしていた。「KINESIS──時空の基軸」における三者三様の身の置きどころから、観客は、同時多発する異質な出来事のただなかに放り出される格好となった。しかしながら、そのような危機的瞬間の連続は、二本の円柱の間で飯田晃一が捧げ持った髪の毛を、相良ゆみがつかみあげる瞬間から、観客の視線をやさしく迎える場面へと転換する。おそらくここには、対立から和解へという、想定されたひとつの物語があったはずである。KINESIS の磁場や竹田の演奏からやってきたものではなく、演劇的な配慮にしたがった物語への欲望。クライマックスの特異点をもたない世界において、身体が祝祭性をもつために欠くことのできない「劇的なるもの」への欲望がそこにあった。■
※2012年8月3日に最終改稿。
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