2012年7月6日金曜日

spaceone・6つの夜|第五夜



spaceone・6つの夜
── 第五夜:二転三転 ──
【キュレーター:航】
日時: 2012年7月5日(木)
会場: 東京/銀座「潦(にはたづみ)
(東京都中央区銀座7-12-7 高松建設ビル1F)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: 航(vocal, piano)+デイヴ・ミラー(drums)
藤井貴子(vocal, guitar, mountain dulcimer)+
あおやぎとしひろ(reso-phonic guitar, Irish bouzouki)
臼井康浩(guitar)+瀬尾 亮(voice)+中村 真(piano)


♬♬♬


 オリジナルなプログラムを組むゲスト・キュレーターを迎えて、ジャズや即興演奏だけにかぎられない、もっと幅広く、多様な音楽が行き交う場を構想するプロジェクト spaceone は、かねてから藤井と親交のあるピアノ弾き語りの航に白羽の矢を立て、「6つの夜」の第五夜を構成した。ドラムの植村昌弘と “小窓ノ王” を結成している航は、楽曲のパーカッシヴな性格がドラムとの共演に向いているのだろう、おりよくNYから来日中だった噂の “ペットボトル人間” でドラムをたたくデイヴ・ミラーと、おたがいの曲を持ち寄る特別セッションを組んだ。リズムの厳密さを徹底する植村昌弘と、より自由なイマジネーションを迎え入れるミラーの打楽との相違が、結晶度の高い航の歌謡世界に新しい局面を開いていた。また航の歌仲間で、都内を中心に演奏活動をしている藤井貴子は、民族楽器を弾くギター・パートナーのあおやぎとしひろとのデュオで、トラディショナル・フォークの世界を披露した。第五夜の最後は、臼井康浩がリーダー役をつとめた即興セッションとなり、パンキッシュかつダダイスティックなヴォイスの瀬尾亮、瀬尾とは対極にいるピアニストで、高度な演奏技術でリリカルな世界を展開する中村真という、通常なら出会わないだろうふたりを引きあわせただけでなく、臼井康浩がノイズ演奏で中間領域を埋めていくというかなり冒険的なセットだった。

 ピアノの位置を動かすことができないので、銀座の裏路地に開けた大きなガラス窓の前をステージにすると、ピアニストは背中で共演者の音を聴くことになる。初日だけは、入口横の壁際がステージとなったが、岡本希輔がキュレートした「ドガの踊り子たち」が窓側を使用してから、あとの四日間はこちら側が定位置となった。銀座の裏路地が演奏者の背後に見えて、そこを飲食店から出てくる人や通行人が行き過ぎ、ときには窓のなかで展開されている世界に心を奪われてたちどまり、人垣を作ったりもするというようなビザールな環境ができあがったのである。もちろん外に音が漏れているわけではない。ピアノを弾きながら歌う航は、デイヴ・ミラーのドラミングをすべて背中で受けとめることになった。演奏曲目は「あぜ道」「Higswell Abstraction」「マド」「火の粉」「白磁白湯」「風雪」の全6曲。このうち、藤井郷子が作曲した「白磁白湯」は、ふたりの出会いを記念するレパートリーで、航が感謝をこめて「spaceone・6つの夜」に捧げたものといえるだろう。また最後の「風雪」は “小窓ノ王” のために作曲されたもので、少し前までタイトルもついていなかった。ミラーが提供した「Higswell Abstraction」の「Higswell」は、ビリー・ヒギンズとエド・ブラックウェルの名前を合体したものというMCがあり、たぶん彼らはミラーが敬愛するドラマーたちなのだろう。「火の粉」のような即興的に展開するナンバーで、ミラーはその発想の柔軟さを発揮し、航の要求に見事にこたえていた。

 第二部に登場した藤井貴子は、前半で通常のアコギを、後半でマウンテン・ダルシマーを演奏しながら歌った。共演者のあおやぎとしひろは、カントリーなどで使われるリゾネーター・ギターやアイリッシュ・ブズーキを曲によって持ち替えながら、多彩なギターの音色で藤井の演奏とアンサンブルした。マウンテン・ダルシマーは、合衆国のアパラチア山脈に移住したヨーロッパ人が持ちこんだといわれている民族楽器で、藤井が所持する楽器は手作りされたものとのこと。藤井がMCで語っていた、持ち時間の半分を調弦に使ってしまうというトラッド楽器の宿命については、箏という邦楽器でフリージャズをする八木美知依も触れていたことがある。西洋楽器の機能性が、ひとつの文化スタイルなのだということがわかる瞬間だろう。演奏曲目は「風のむすめへ」「さいはてのアリア」「ようこそ」「海辺」の全4曲。「風のむすめへ」で家族への思いが託された言葉を歌い、「ようこそ」で会場を訪れた観客を迎えるなど、藤井貴子は、家族的なコミュニティのあたたかさを歌うトラディショナル・フォークの世界をいまに伝えようとしている。

 ヴォイスの瀬尾亮は、たとえば、巻上公一や徳久ウィリアムなどの声帯が、かならずしも彼らのものではない雑多な声を交通させるようなプラトーを形成している(その意味で1980年代的な)のと比較すると、声が声として突出した表現主義の時代、ダダの時代から突然ワープしてきたパフォーマーのようだった。彼が椅子のうえに乗せるサックスも、ネックの部分が外され、管楽器をただの管にしてそこに息を吹きこんだり、キーをリズミカルに動かしたりするような使われ方をして、声のエフェクターのようなものに異化されていた。ちょうどヒグチケイコが持っている壊れたトロンボーンみたいに。その対極をなしていたのが、高度に洗練された演奏技術で、スタイリッシュでもあれば、その気になれば美に酔うこともできるだろう中村真のリリカルなピアノ演奏である。真逆の方向に突出した表現をするこのふたりに対して、フレーズを奏でることのない臼井康浩のギターは、まるで電気ノイズの発生器のようで、みずからは明確なステートメントを出さないものの、両者の演奏に寄り添い、つねに機会をうかがっては、瞬間瞬間をとり逃すことなく橋を架け、3本の即興ラインを織りなすというより、むしろそこにある種の緩衝地帯を開くような演奏をしていたように思う。凸と凸の間に凹を置いて凸凹凸にするみたいに。これまでの活動からもうかがえることではあるのだが、臼井康浩の本質がメディエーターであることに改めて気づかせるようなセットだった。

-------------------------------------------------------------------------------