風巻 隆
ソロ・パカッション
"ワンダーランド vol.2"
日時: 2012年7月24日(火)
会場: 東京/明大前「キッド・アイラック・アート・ホール」
(東京都世田谷区松原2-43-11)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金/前売: ¥2,200、当日: ¥2,500(飲物付)
出演: 風巻 隆(percussion)
予約・問合せ: TEL.03-3322-5564(キッドアイラック)
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日々の暮らしに忙殺されて、最近では、なかなか楽器に触る機会ももてないでいるということであるが、今年の年頭に、稲毛のジャズスポット「Candy」で、ピアノの新井陽子と共演してからほぼ半年ぶりに、風巻にとっては古巣になる明大前キッドアイラックで、毎年恒例となるソロ・パカッションのライヴが開かれた。職業的なミュージシャンにとっては考えられないような活動ペースだろうが、音楽を生活と切り離すことなく、むしろ生活のただなかから立ちあげようとしてきた風巻隆にかぎっていうなら、天体がゆっくりと公転するようなこうした音楽の時間の刻み方も、そんなに不自然なものには感じられない。自分のためにやっている音楽の強みなのだろう。もちろんこの「自分のために」ということは、「他人のためにやっているのではない」ということを意味しない。人生の時々において、自分というものを作りあげてきたものに一生涯かかわろうとする覚悟のようなもののことである。風巻隆の打楽スタイルは、とても早い時期に確立したといっていいだろう。長い演奏活動のなかで、スネアひとつになったり、立ったまま演奏したり、新しい楽器を導入したりと、様々な変化が試みられてきたが、いまにして思えば、そのどれもが風巻らしさに彩られていたように思う。昔語りをすれば、まるで前世の話でもしているかのような世の中の変わりようだが、こんなふうに音楽をしている男もいるのである。
太鼓面を水平にしたバスドラを、比較的高い位置でセンターにすえ、そのうしろに椅子が置かれる。その椅子に腰かけながら、スネアドラムや、それよりずっと小型の太鼓を肩から下げてたたき(音量を調節するため、子供用のスティックも使用しているとのこと)、またこの小型太鼓に加えて、シンバルやバケツなども、水平にしたバスドラの皮のうえに乗せ、太鼓面を共鳴板にして響きを確保しながら、その前に立ってたたくというのが、この日の基本的な演奏スタイルだった。アフリカの民族楽器コギリ(木琴)も、バスドラの縁に乗せてたたいていた。このコギリは、バスドラにちょうど乗るくらいの小型のもので、風巻の話によれば、本格的な民族楽器と民芸品(おもちゃ)の中間にあるようなものだという。風巻独特のサウンドということでは、シンバルの音を手のひらで変化させながら演奏するという特殊奏法もあるのだが、コギリを持参するときは、シンバル類は立てないことにしているということで、この日の演奏では聴くことができなかった。長短のスティック、マレット、素手などの他に、木製の鈴の鈴がとれたものを使用した。打楽サウンドにバラエティが生まれるだけでなく、この木製の鈴をバケツやコギリに激しくこすりつけることによって、一種インダストリアルなサウンド効果が得られる。前半と後半のいずれにおいても、山場が訪れるような最後の部分で使用された。
水平バスドラの発想は、レカン・ニンやエディ・プレヴォーなどの演奏でも知られているが、風巻はバスドラの皮自体にアプローチして、バスドラそのものを演奏することはない。あくまでも共鳴を求めて台座のように置かれている。これは他の演奏家との大きな違いだろう。演奏構成は、楽器を変えながら、短い曲を次々につなげていくというもので、基本的にクライマックスのない音楽であった。一曲ごとに拍手をもらうということをせず、前半35分、後半50分ばかりの時間を、坦々と楽器を交換しながら進めていく。短い演奏を重ねていく構成は、演奏することがまれな身体が、少しずつ音楽する身体にみずからをチューンナップしていく一歩一歩のようで、体操をするようにマラカスをふりまわし、木製の鈴でコギリをたたき、さらにバスドラのうえに逆さにして置いたシンバルを、木製の鈴でおさえつけながら片方のスティックでたたいたかと思うと、椅子に腰をおろしてスネアの演奏に移行するという具合である。風巻ならではの不均衡なリズムは、メロディアスなトーキングドラムを思わせるものだが、打楽のサウンド構成自体にも工夫が凝らされ、スネアの皮の響きとリムショットが対話をかわしたり、片方の腕で皮面をおしてポルタメント効果を出したりと、彼がオリジナルに組みあわせた複雑な操作をしている。出されるリズムが不均衡なだけでなく、複数のサウンドがヴァーチャルな対話をかわすように演奏が工夫されているといったらいいだろうか。木製の鈴でバケツやコギリを激しくこすってインダストリアルな効果を出すという、サウンドが一色になるような演奏は、風巻にとってはむしろ例外的なクライマックスの作り方だと思う。
風巻隆のパカッションが、一般のドラムキットを使った演奏と大きく違うのは、四本の手足を使って立体的なリズム構成をしないところにある。アプローチはひとつひとつの楽器と一対一の関係においてなされる。このような風巻の姿勢は、即興的な楽器との対話のなかから、楽器固有の声を発見することに重点を置いたものだといえるだろう。おそらくこの発想は、楽器だけに限られるようなものではなく、たたいて音の出るものならすべてということになるはずのものである。その意味において、風巻にとっての楽器は、いわばものとしてこの世にあるものすべてであり、民族楽器でもスネアでも、バケツでも子どもの玩具でも、どれも同じ資格をそなえた対話の相手になるのだと思う。そうしたもののひとつひとつから固有の声を引き出そうとするのが、風巻打楽の本質である。こうした発想が淵源する場所を、即興演奏の歴史のなかにたどっていけば、風巻隆の音楽を形作っているものが、少しずつ明らかになってくるのではないかと思う。風巻隆は一日にしてならず。たとえ一年に数度の演奏しかしなかったとしても、彼の生み出すサウンドがいまも強度をたたえ、聴くものを励起する大きなエネルギーを発するのは、けっして偶然のことではないのである。■
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