spaceone・6つの夜
── 第四夜:cross the track ──
【キュレーター:三角みづ紀・松本健一】
日時: 2012年7月4日(水)
会場: 東京/銀座「潦(にはたづみ)」
(東京都中央区銀座7-12-7 高松建設ビル1F)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: 堀内幹(vocal, guitar)+井谷享志(percussion)
三角みづ紀(poem reading)+千野秀一(piano)
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プロジェクト spaceone の音楽週間「6つの夜」も、「役者がそろった!!」でいよいよ折り返し地点を越え、後半戦に突入した。詩人の三角みづ紀と spaceone 発起人のひとり松本健一が共同でキュレートした第四夜「cross the track」には、初顔あわせとなる2組のデュオが登場、前半と後半にわかれてそれぞれ45分ほどのステージを務めた。最初に演奏したデュオは、フォーク・ブルース調のオリジナル・ソングをハスキーな声で弾き語りする堀内幹と、スネアの位置にゴブレット型のダラブッカをおき、シンバル類を低くセッティング、両脇に細い金属パイプの一列からなるツリーチャイムを吊りさげたオリジナルな打楽セットで演奏する井谷享志の初顔あわせ。必要最小限の演奏で、堀内幹の持っているパッショネートな内面世界を聴かせた。松本がキュレートした後半のセットは、ポエム・リーディングのライヴ活動を積極的におこなっている詩人の三角みづ紀と、ベルリンとの間を往復してインターナショナルな演奏活動を展開しているピアニスト千野秀一のデュオ演奏。spaceone の田村/藤井のふたりも現在ではベルリンに拠点を持っており、現地で千野に会うことも珍しくないとのこと。三角と千野の初共演は、言葉/音、あるいは声/音のような対立項のなかに閉じてしまうことのない、それぞれに確乎とした世界を築きあげているふたりによる楕円形の音楽だった。
井谷享志の好サポートを得た堀内幹の歌は、MCなしでたてつづけに演奏されていった。この日聴いたかぎりの印象でいうなら、彼の奔放なイマジネーションが私たちに見せるのは、悠久の自然に棹さしながら、視線を世界の果てにおいてこの世の人間のさまを歌っていくという、語り物の世界だったように思う。その一方で、ハスキーな声のパッショネートなありようは、聴き手に歌詞のメッセージを運ぶだけでなく、自己触発の役割をも果たしていた。荒っぽくいえば、商品としてのポップソングはさておき、幅広い意味でのJ-POPを含む現代歌謡が、演歌に代表されるような伝統的な語り歌から、歌手その人の衝動的な内面の突きあげを重視する方向に変化してきたその両側面を、堀内の歌は等分にわかち持っているように思われた。現代の語り部といったらいいだろうか。その中心にあるのは、やはり出来事を象徴的に伝えることのできる彼の詩作力なのだろう。演奏曲目は、「息をかんで」「借りものの歌」「キの香り」「山が落ちる」「コブシの花びら」「青い星」「クチナシナラバ」の全7曲。最後に絶唱された「クチナシナラバ」では、直接的にはクチナシの花が歌われているが、声の激しさがイメージに地滑りを起こして、言葉を失った現代人のさまが重ね映しされることとなる。堀内は通常のギブソン・ギターの他に、弦の張り方を独自に工夫して、さわり(ノイズ成分)の多いベースラインを出す「無間棹」とネーミングされた改造ギターを演奏して効果を出していた。
松本健一がアレンジした三角みづ紀と千野秀一のデュオは、それぞれに文体と呼べるような声や手の形、身体を持っているという点で、言葉あるいは声とピアノの違いを問題としない即興演奏の醍醐味を味あわせてくれた。クラシックのリートのように、声と手の関係が、歌とピアノ伴奏の関係のなかに閉じたものではなく、音楽がふたつの焦点を持っていたという意味で、楕円の音楽を作りあげていた。 spaceone の音楽週間のうち、第二夜の「ドガの踊り子たち」に出演したテリー・デイの詩朗読が、詩の言葉を楽譜にみたて、それを即興的に解体していくというものだったのにくらべ──おそらく詩人の吉増剛造なども、こうした系譜にある言葉のパフォーマーだと思う──三角のそれは、瞬間瞬間に通り過ぎていく言葉を、その場その場でつかまえて声に乗せていくというような即興演奏になっていた。その場の思いつきかもしれない、過去に詠まれた詩の引用があるかもしれない、本人にしかわからない、あるいは本人にもわからないこれらのことは、言葉にとってさしたる問題ではなく、本質的な相違ではないように思われる。お互いの演奏を注意深く聴きあいながら、デュオによる冒険が少しずつ進められる。ときおり左手がたたき出すリズムや音色が、三角から言葉のない歌を引き出していく。即興的なピアノの散らし書きのなかに、思いもかけず演歌調のパターンがあらわれたりして、声を歌につなげようとするのは、歌に対する千野秀一のやむことのない愛情ゆえである。
三角みづ紀は、演奏のほとんどの時間を、目を閉じたままでパフォーマンスしていた。おそらくは目の前に迫る観客たちの顔色に邪魔されることがないように、あるいは、みずからの内面を通り過ぎていくものを、肝心の瞬間につかまえ損なわないように。でも外の世界が気にならないことはないようで、演奏の後半になってから、彼女はほんの少しだけ窓を糸のように細く開いた。身体はほとんど静止したままだが、膝頭のうえに乗せられた両手は、無意識にだろうか、決してじっとしていることはなく、あたかもふたりの舞踏家がコンビネーションするかのように、とどまることのない小さな動きをつづけていて、わからないながらなにかの表情を作っていた。演技の心得を持つヴォイスの巻上公一に、かつて教えられたことがある。衝動は身体の動きと密接に関係しているので、声だけ即興的に変えようとしてもできない、変化はつねに全身的に訪れるものだということである。もしかして無意識にしているのかもしれない三角みづ紀のこの掌のダンスもまた、そうした声と身体の媒介器になっているのではないだろうか。ある瞬間、言葉がとぎれたとき、彼女の右手は膝頭から大きくそれて、右足のふくらはぎのあたりまでをなでるような仕草をした。単にかゆかったのかもしれない。もしそうだとしても、思いがけぬ皮膚の呼びかけが、衝動的な即興の一部分であることに変わりはないだろう。■
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