spaceone・6つの夜
── 第二夜:ドガの踊り子たち ──
【キュレーター:岡本希輔】
日時: 2012年7月2日(月)
会場: 東京/銀座「潦(にはたづみ)」
(東京都中央区銀座7-12-7 高松建設ビル1F)
開場: 7:00p.m.,開演: 7:30p.m.
料金: ¥2,000
出演: 荻野 都(p) Miya(fl) 橋下英樹(tp) 津上研太(sax)
森順治(as, bcl, fl) 松本健一(sax) 岡本希輔(contracello)
entee(oboe, English horn, p, conduct)
松本ちはや(perc) 特別ゲスト:テリー・デイ(リコーダー数種、詩朗読)
板垣朝子(dance) 森下こうえん(dance)
飛び入り参加:藤由トモコ(dance)
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銀座七丁目の「Space 潦(にはたづみ)」で開催されているプロジェクト spaceone 週間「6つの夜」の第二夜は、コントラチェロ/コントラバス奏者の岡本希輔がキュレーターを務める「ドガの踊り子たち」だった。プログラム・タイトルは、かつて喫茶茶会記で岡本が主催していたシリーズを踏襲したもの。印象派の巨匠エドガー・ドガの名作として知られる踊り子を描いた作品群を鑑賞しているとき、画題が踊り子たちにあるのか、あるいは絵の片隅に配されるパトロンにあるのかわからなくなる。そんな視線の困惑を体験をした岡本が、瞬時のテーマの反転を即興演奏のなかに持ちこむアイディアを得て、ミュージシャンとダンサーたちからなるパフォーマンスを構想した。この晩の公演では、ダンサーのうち、第一部に板垣朝子、第二部に森下こうえんが登場し、第三部では、ふたりがそろってパフォーマンスするという流れになっていたが、たまたま会場に来ていたダンスの藤由トモコが飛び入り参加することになったため、最後には、三人のダンサーが場所を分けあうにぎやかな展開となった。キュレーターを務めた岡本は、このような偶有性を、即興演奏をさらに大枠で包む創造の重要な契機のひとつとして利用しているようである。それはなにが起こるかわからないというよりも、自分にそれができるかできないかわからない状態で、綱渡りに挑戦させられるというような緊急事態に、人を直面させるということを意味している。即興に向かうためのジャンピング・ボードといったらいいだろうか。
集められたメンバーは、イギリスから来日したばかりのテリー・デイや、TIO[Tokyo Improvisers Orchestra]でコンダクションの中心的役割を果たしている entee、さらにはプラットフォームとしてのTIOのもうひとつの柱になっているフルートのMiyaも参加していたため、特別編成のTIOと呼べるような側面を持っていた。キュレーター役の岡本が人選した spaceone のプログラムは、オーケストラに管楽器をそろえてみたいという、かねてからの彼の意向を反映した形になっており、ジャズの素養をふんだんに持った演奏家たちの参加は、はっきりとした効果をあらわして、パンチの効いたサウンドによる集団即興を聴かせることにつながった。entee のコンダクションによる交通整理はあっても、もちろん楽譜が用意されたわけではない。その意味では、完璧な即興オーケストラのパフォーマンスだったのだが、ジャズの歴史を踏まえているという点においては、1960年代の音楽シーンにおいて、各国で大きな活動を展開したジャズ・コンポーザーズ・オーケストラの伝統に直結するような音楽を聴くことができたのではないかと思う。
出来事が起こるときには、構想された枠組みの外側というものがかならず存在して、それは藤由トモコの飛び入り参加でもあるのだが、それ以上に撹乱的な要因を持っていたのは、やはりTIOのリハーサルでも披露されたテリー・デイによる詩朗読をしながらのコンダクション・パフォーマンスだった。テリー・デイがコンダクションすることは、もともと想定されていなかったようで、指揮をする entee にうながされた彼は、即興演奏のまっただなかで、楽屋に置いてきてしまった詩のシートをとりにいくために中座し、しばらくの間、空席になったデイの場所に、ダンサーの森下こうえんが腰を下ろすことになった。テリー・デイの他に、構想された枠組みの外側を指し示していたのは、このようにして状況を的確に読み、その場その場で “理論的に”(といいたくなるほどに無駄のない)動きを選択し、さらに状況そのものを作り出していく森下こうえんの身体表現だったように思う。三人のダンサーが場所を飽和状態にしていた第三部で、森下は会場の出入り口から外に出ると、ステージのうしろに大きく広がるガラス窓のむこう、銀座七丁目の裏通りをふらふらとさまようということをした。演奏に専心して、出来事に気のつかないミュージシャンはいても、演奏家の背後を見ることのできる観客は、おそらく全員がこの出来事を見ることになった。それはよくある演出だよという前に、あの状況のなかで選択されたありえない行為として、構想された枠組みの外側を指し示すものだったと思う。なんといっても「ドガの踊り子」が絵画の外に踏み出していったのだから。
詩朗読をしながらステージを歩きまわり、言葉や声の形を楽譜がわりにして、まるでその場で思いついたようにダイナミックなコンダクションをしていくテリー・デイのパフォーマンスは、クラシックの指揮者も、わかりやすく、メッセージ性にあふれた魅力的なパフォーマンスによって楽団員や聴衆を魅了していくところに、豊かなオーケストラ・ミュージックが創造されていくということを、改めて思い出させるようなものだった。この意味では、デイと対照的な entee のコンダクションは、一種の教育装置としてあるといえるかもしれない。「指揮される即興」が登場したとき、ジョン・ゾーンのコブラは、それを「ゲーム」(ゲームピース)と呼んでいたが、遊びながら考えるという点で、それが教育装置の側面を持っていたことは間違いない。私たちはそこで新しい方法を学んだのである。このやりかたが時間を経るにしたがって、少しずつゲーム的なものから学習されるものに変質してきているのかもしれない。根っからの自由人らしいテリー・デイは、ルールなんて問題じゃない、インプロヴァイザーならば、あるいは音楽好きの聴き手ならば、見ていればわかるだろうというような調子で、オーケストラ・メンバーだけでなく観客にも強烈にアピールしてみせる。entee の好判断により登場したテリー・デイのパフォーマンスは、会場の空気を一変した。もちろん厳格なルールがあるからこそ、それを破る楽しみも大きくなるということはいうまでもないが。■
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