夏 至
木村 由|ちゃぶ台ダンスシリーズ 2012
日時: 2012年6月21日(木)
会場: 東京/経堂「ギャラリー街路樹」
(東京都世田谷区経堂2-9-18)
開場: 7:30p.m.,開演: 8:00p.m.
料金: ¥800(飲物付)
出演: 木村 由(dance) 太田久進(music)
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6月21日は暦のうえでも夏至。昼が最も長くなるこの日、経堂にある小さなギャラリー「街路樹」の奥まったスペースにちゃぶ台を持ちこみ、ダンサー木村由による「夏至」のパフォーマンスがおこなわれた。2003年にスタートした「ちゃぶ台ダンスシリーズ」で使用されるちゃぶ台は、いまもダンサーが実際に使っている、親族の思い出につらなる愛用の家具なのだそうだが、それと同時に、日本人の生活史に埋めこまれた昭和の記憶とともに、畳のうえの生活という、いまではあらかた失われてしまった家族団欒の風景を強く喚起するイコンでもある。ご飯を食べる場所に足を乗せたらダメでしょ!という母親の叱責をそっと踏みつけながら、いつものように、ちゃぶ台のうえに広がる世界に足を踏み入れる。日常生活と地続きになったなんでもない場所が、ある日突然、ちょっとしたことがきっかけとなって、テーブルの高さのぶんだけ虚構度を高める。それはちゃぶ台に乗るという行為が、昨年の夏、箪笥のうえにあげたタオルケットの箱を取るためだったとしても、もともと想定されていないものだからだろう。ましてやそこで舞踏を踊ろうなどと誰が考えるだろうか。
舞踏とちゃぶ台の関係は、木村由の場合、「ちゃぶ台のほうが色々なことを発する」というように、身体表現のための小道具といった一方的なものではないし、芝居の書き割りのように、なんらかのかたちでダンスを説明する添え物でもない。「夏至」において、ちゃぶ台はまさに踊られる舞台としてあり、その意味でこのちゃぶ台は、むしろ身体やその動きを、外側にあって枠づけるものとなっている。考えてみれば、ちゃぶ台が置かれるのもステージなのだから、これはいわば舞台のなかの舞台であり、彼女が踊っている場所は、いわば入れ子状になった世界なのである。私たちはそこでいったいなにを見ているのだろう。ひとつ言えることは、舞踏というとりとめもなく広大な世界が、ちゃぶ台ひとつで “私の世界” へとカスタマイズされるということである。誰のものでもない私だけの場所。こんなにもひそかな、こんなにもささやかな楽しみ。そのようなものを通過しながら、世界はいったんちゃぶ台という極小の一点へと凝集し、カメラ・オブスクラの穴が反転した映像を映し出すように、おそらくはちゃぶ台のうえに、すべてを逆さまに映しだす。上は下で、下は上。前は後ろで、後ろは前。右は左で、左は右。内側は外側で、外側は内側という具合に。そこで私たちが見ているのは、内側から触診された身体であり、頭蓋骨のプラネタリウムに投影された星々の輝きなのだ。身体にとって、触れることのイマジネーションを与えるためには、ステージのうえにありながら、手の届くところに、なにか皮膚に触ってしまうようなものを、自前で仮構しなくてはならない。
作品構成にもよるのだろうが、本年度の「夏至」にかぎっていえば、おそらくそれと知られることなく、危機的な瞬間が二度訪れていたように思われる。ちゃぶ台のうえに乗るときと降りるときだ。世界が入れ子状になっているため、見られてはいけない瞬間が、衆人環視のなかにある。それはちょうどカメラ・オブスクラの穴を通して見られている映像が、さらに後ずさりすることで、穴をのぞきこんでいる人までを映像のなかにとりこんでしまうような出来事といえるだろう。この瞬間を作品の外にはじき出すため、暗転からはじめるという方法があるかもしれない。しかし木村由はそうしない。むしろちゃぶ台の世界の内側と外側を同時に生きる身体を提示しようとする。それだけでなく、最後にちゃぶ台から降りると、脚を折り畳んで壁に立てかけたりする。いままでみずからの身体を生かしていた世界を折り畳むのである。そのようにして彼女は日常性(というもうひとつの虚構の世界)へと戻ってくるのであるが、ふたつの世界の往還が、身体にとって、あるいは観客の想像力にとって、危機的な移行の瞬間であることに変わりはないだろう。色あせた緋色の長襦袢のように見える衣装で登場した「夏至」の木村由は、ちゃぶ台のわきを通過してステージ奥の位置まで進み、むこうを向いたまま、台所のざるをお面のようにかぶり、目鼻のないのっぺらぼうになった。
「夏至」における入れ子状の世界構造は、こう書くとたいそうなものに思えるが、囲炉裏をかこむ子どもたちに古老が昔語りするという、私たちのよく知っているあの場面にたとえるとわかりやすい。すなわち、木村由の身体は、ひとつに語り部のものであり、ひとつに語り部の話のなかに、亡霊のように立ちあらわれる女性らしき誰かのものにスプリットされている。のっぺらぼうの面は、ダンサーがその誰かにこれから身体をあけわたすことを告げるものだろう。最後にちゃぶ台から降りた亡霊は、観客たちが生きている現在時へと出現して、物語の時制を一瞬だけ混乱させる。それは映画『リング』で、ブラウン管から貞子がはい出してくるのとおなじ種類の時間、すなわち、この世ならざらぬ狂気の瞬間である。亡霊はのっぺらぼうの面をゆっくりとはずす。そこにあらわれた語り部の顔は、慈愛、哀惜、悲哀といったいくつもの感情を重ねて輪郭をぼやかした、深々とした表情をたたえている。「夏至」の最後にやってくるこの深々とした表情こそが、おそらくは語ることのできない領域を語ろうとする身体表現(ダンス)の究極の形なのかもしれない。亡霊の登場、間延びした時間を生み出す所作、単色の明快さを消した表情の深みなど、いくつかの点をひろっていくと、木村由の「夏至」は、3.11後の世界が招き寄せた現代の夢幻能といえるようなものではなかったかと思う。
夏至の日、私は亡霊を見ていた。あるいは亡霊の夢を見ていた。ちゃぶ台のうえにあらわれたそのものは、女性にしては大ぶりに感じられる手のひらを力なくたらしながら、円山応挙の幽霊画のように、表情豊かに観客のほうへとつきだす。手を前にたれて立つ亡霊の姿は、ピカドンにあった直後の広島で、熱線に皮膚を焼かれ、その痛さから手を空中にさしのべて水を求める数多の人々の姿と重なる。色あせた緋色の長襦袢を思わせる衣装は、焼けただれて垂れさがった皮膚さながらに痛々しい。亡霊はゆっくりとちゃぶ台のうえに座り、身をかがめては、ちゃぶ台のうえから奈落をのぞきこむようにしてテーブルのしたの暗がりに顔を突っこみ、身体を折り曲げてひっくりかえっては、片手をステージの床までとどかせる。私たちのいる世界に、亡霊の左手だけが突き出す。狭いちゃぶ台のうえで移り変わっていく身体のさまが、亡霊のありし日の暮らしという幻想の風景を、その周囲にたちあがらせる。ちゃぶ台のうえの亡霊が、彼女の時間をさかのぼって夢を見ている。観客もまた亡霊の見ている夢を見ているのだ。福島で何百年とつづく地獄の釜のふたが開いたからには、飛散した放射性物質が、原爆の生き地獄のなかにいまも封じこめられている亡霊を、時間をねじ曲げて招き寄せたところで、いったいなんの不思議があるだろうか。■
※文中の写真は、すべて長久保涼子さんが撮影されたものです。ご協力に感謝いたします。
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