佐藤允彦・朴 在千
SATOH Masahiko - PARK Je Chun
Afterimages
(BAJ Records|BJSP 0007)
曲目: 1. Afterimage I(11:27)、2. Afterimage II(10:29)、
3. Afterimage III(7:05)、4. Afterimage IV(9:09)、
5. Afterimage V(6:34)、6. Afterimage VI(15:30)
演奏: 佐藤允彦(piano) 朴 在千(perc)
録音: 2010年8月21日
場所: 埼玉県/深谷「ホール・エッグファーム」
エンジニア: 広兼輝彦(mimi-tab)
発売: 2012年3月21日
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afterimage 残像|光を取り去った後も光の感覚が生じること。明の刺激に対して、明の残像があるときを陽性残像、明の後に暗の残像があるときを陰性残像という。より強い光を見た後は暗く感じ、より弱い光を見た後は明るく感じるという、時間的な現象がある。この現象を継時対比という。また、明るさの異なる刺激面が並んで存在するとき、接続する境界は、明るさや暗さをより強く感じさせる。この現象を、同時対比またはMach現象という。比喩表現として「思い通りに消すことのできない映像的記憶」を指すこともある。 (はてなキーワード)
人間の感覚のある相をタイトルにするのは、佐藤允彦のアルバムの特徴のひとつになっているが、本盤に「残像」というタイトルが選ばれたのには特別な理由があり、それは「富樫雅彦を敬愛しつつも会うことが叶わなかった朴在千氏から、命日の頃に是非日本で富樫さんのために演奏したいのだが、というメールが来た時、私は迷わずEGG FARMでのデュオを考えた。その日、我々は無意識のうちに富樫さんの残像を追っていたのではあるまいか」(佐藤允彦)というものである。生き残ったものが死の影を追う。ともに喪の時間を過ごすためにおこなわれる儀式的なコンサート。それが富樫が何度となく演奏したことのあるEGG FARMであるならなおさらである。おそらく最初はサックスの姜泰煥にならって始められたのだろう、床にゴザを敷き、胡座をかいて演奏する朴在千のオリジナルな打楽スタイルは、偶然にも、両脚が使えなかったため、独特の奏法や打楽スタイルを編み出すことになった富樫雅彦の残像になっている。「敬愛」という言葉から、朴がそうしたみずからの残像性を意識していたことは明らかだろう。そうとは知らないうちに、姜泰煥のものであり、富樫雅彦のものでもあるような残像のなかに座りこんでいた自分という存在。
朴在千と佐藤允彦のデュオは、朴在千が富樫雅彦の残像を追い、佐藤允彦がそのような朴在千の背中を──残像を──追うことからスタートする。すなわち、この場合の「残像」は、時間的な発音点を指示するコンポジションにもなっている。「残像」は追うことによって初めて生じる。ふたりの間にあるのは、目で追う譜面ではなく、記憶に鮮やかな死者の存在の痕跡のような不確かなものなので、新しく演奏されたサウンドは、そこにあったはずの残像に幾重にも “ずれ” を生じさせ、いたるところで追うものが追われるものに反転するという事態が生じているが、それでも佐藤允彦の演奏が朴在千の演奏をできるだけ意識的に追い越さないことによって、演奏の最後まで、残像は残像のままにとどめられている。かつてデュオがお互いに先を争って演奏していたのが生の音楽といえるなら、これはまさしく死の影を踏む音楽、即興演奏をもってするレクイエムといえるのではないだろうか。
残像を追うことで必然的に生じるもうひとつのテーマがあり、それは残像への漸近と接触というあり得ない事態である。共演者の演奏が残していくサウンドの残像を追いかけるうちに、デュオの間に開けた距離が少しずつ縮まってくる。残像を追いかけたり、残像を追い越したりしながら、ゆっくりと縮められていく距離は、たとえば、雲海が棚引くような「Afterimage IV」が典型的だが、お互いのサウンドどうしが触れあうような瞬間をもたらし、その瞬間だけ時間的な動きをとめる。サウンドはひとつの場所に滞留するようにして移動することをやめ、夢見心地のなか、まるで肌と肌を触れあわせるように、響きと響きの触れあいのなかに自足する。ともにいる幸福とともに、このとき残像が消滅する。■
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BAJ Records