2012年4月2日月曜日

黒田京子・高原朝彦



月刊くろの日
── 黒田京子・高原朝彦 ──
日時: 2012年3月30日(金)
会場: 東京/大泉学園「インエフ」
(東京都練馬区東大泉3-4-19 津田ビル 3F)
開場: 7:30p.m.,開演: 8:00p.m.
料金: ¥2,800+order
出演: 黒田京子(piano, voice)
高原朝彦(10string guitar, psaltery, tenor recorder)
演奏曲目:「バレット」「ガリアルド」「もし一日がひと月であり一年だったら」
(いずれもルネサンスの古楽曲で作者未詳)
バッハ「無伴奏パルティータ1番」から「サラバンド」
プーランク「サラバンド」(以上、高原)
谷川雁/新実徳英「ばらのゆくえ」、モンポウ「沈黙の音楽」(以上、黒田)
予約・問合せ: TEL.03-3925-6967(大泉学園インエフ)


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 高原朝彦と池上秀夫が主催する即興シリーズ「ベアーズ・ファクトリー」に招かれたのが縁となって、ピアニストの黒田京子が、彼女のホームグラウンドになっている大泉学園インエフの「月刊くろの日」に、10弦ギターの高原朝彦を迎えてセッションをおこなった。高原はこれがインエフ初出演とのこと。阿佐ヶ谷ヴィオロンの定期公演は、トリオによる30分ほどの即興セッションを2セットと、いたってシンプルな構成になっているが、「月刊くろの日」の高原は、第二部の冒頭、黒田の要望にこたえてルネサンスの古楽曲やクラシック曲を弾奏しただけでなく、いつもの10弦ギターに加えて、弓奏プサルテリー(古楽で使用される三角形の弦楽器)やテナー・リコーダーなども演奏した。(マックスで出したときの)グランドピアノの音量にかき消されてしまわないよう、ギター類に接続されるアンプの出力が、ギターの音色が変わらない程度、ハウリングが起きない程度に大きく設定された。聴き手の耳は、音の大きさを音楽の流れのなかで(想像力で)補って聴くということがあり、楽器の相違からくるこの音量バランスの問題が、演奏のなかで気になることはなかった。そうしたことよりもむしろ、この音量問題が教えてくれたのは、ヴィオロン・セッションがいかにミクロな音の交換からなりたっているのか、どのような音楽環境のなかで、高原の耳の繊細さが鍛えられてきたのかということだった。もちろん黒田の耳が繊細でないということはなく、いずれも音をきめ細かく扱う際に、どの部分が集中的に細分化されているのか、その細分化のありようが違うことに気づかされたということである。

 ふたりのインプロヴィゼーションの相違を端的に述べるなら、おそらく形式のあるなしということになるだろう。ギターという確乎とした構造がある楽器を演奏しても、三味線でいうところの「さわり」のような部分だけを、豊かなノイズとして集中的に取り出して再構成していく高原の演奏は、サウンドそのものに耳をフォーカスさせるため、リズム、メロディ、ハーモニーのような音楽の要素にほとんど依拠しない。あるいはそれらをすべて音色として解釈する。即興演奏のなかで、あえて楽曲の引用をおこなうこともあるが、それはむしろ彼が演奏している「さわり」や「けはい」の音楽をより際立たせるため、強いコントラストを与えるということではないかと思われる。そうしたコントロール不能のノイズを連結するため、彼の場合は、身体的なパフォーマンスが演奏の前面にせり出してくる。デレク・ベイリーによってもたらされた認識の地平に、固有の身体のパフォーマティヴな動きを導入して差異をもたらすという点では、以前に述べたように、齋藤徹や今井和雄の演奏スタイルに通じる部分がある。その一方、黒田の演奏は、内部奏法のような異化的な方向にむかうのではなく、純然たるピアノ・サウンドを10本の指がどこまで細分化できるかにすべてをかけている。ピアノという伝統形式の拡大と越境というようにいえるだろうか。ピアノを解体的に扱うことをしない黒田は、そのかわりにヴォイスを使い、言葉を導入して音楽を複雑化するような過程をたどる。

 こんなふうにして異質なインプロヴィゼーションをしているふたりが、共演者の出しているリズムや音色を意識しながら、オリジナルな演奏をぶつけあうだけでも見もの、聴きものであったが、さらに前半においては、ふたつの方向で接点が模索されたように思う。ひとつは黒田の側から、古楽を愛する高原の特徴的なサウンドに、空想的でパストラルな風景を与えるようなやり方で着地点を見つけ出す方法、もうひとつは高原の側から、ドライヴするピアノの演奏に、突出する身体のスピード感をもってシンクロナイズしていく空中遊泳の方法。相手にリードを許すことが伴奏にならないような工夫が、瞬時にその場でなされていく。それは千変万化しながら流れくだるサウンドの奔流のただなかに、広々と開けた場所が出現するような印象だった。第二部に入り、それぞれのソロ演奏のあと再度おこなわれたデュオの演奏では、前半の手ごたえをふまえ、今度は演奏の接点を模索することにこだわらず、それぞれの持ち味を生かした演奏をぶつけあい、その結果、演奏が自然に落ち着きどころを見つけるのに従うといった展開がなされ、またアンコールを受けての短いセットでは、ともにひとつのリズムのうえで遊ぶという演奏がなされた。

 即興演奏を聴く醍醐味のひとつに、固有の即興を追究している演奏者どうし、固有のサウンドを追究している演奏者どうしの偶然の出会いが、新しい音楽の地平を切り開く瞬間に居あわせるということがある。そもそも即興それ自体が、そうした音楽ジャンルの狭間や世代間ギャップのなかから生命を得てきたものであるだけに、音楽の異質性そのものは、創造の源泉でこそあれ、決して否定的な要因とはならない。要は、即興をしようとする演奏者が、そうした異質性に身をさらすような場にみずからを置いているかどうかということのように思われる。これは「前衛」であることとは別のことだ。即興演奏など好きにやればいいようなものだが、そこには即興演奏を即興演奏たらしめるような社会的な位相というものがあり、私たちはそのことをおいて音楽の自律性を称揚することはできないと思うのである。というのも、エスタブリッシュされた音楽ならそれですむことも、街場の音楽である即興演奏は、私たちの生活と直結しているだけに、おのずから別の価値観をもって発展してきたものだからである。そのような意味で、ベアーズ・ファクトリーでの出会いをさらに押し進めたこの晩の異色セッションこそは、即興演奏の本道といえるだろうし、この場所で池上秀夫を加えたトリオを再演しなかったのも、このふたりの異質性をダイレクトにぶつけるという選択が優先したためと思われる。



  【関連記事】                             ■「Bears' Factory vol.11」(2012-01-23)               http://news-ombaroque.blogspot.jp/2012/01/bears-factory-vol11.html

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大泉学園インエフ