セグメンツ創世記 最終回
七日目「神は休んだ。」
日時: 2012年4月15日(日)
会場: 東京/大崎「l-e」
(東京都品川区豊町1-3-11 スノーベル豊町 B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+order
出演: 木下和重(performance) 古池寿浩(performance)
坂本拓也(light, performance) 鈴木 學(sounds, performance)
問合せ: TEL.050-3309-7742(l-e)
※電話はライブのある日の午後5時以降にお願いします。
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ヴァイオリン奏者の木下和重が、ジョン・ケージの後期に登場するタイム・プラケットの考え方に触発され、独自に考案したセグメンツ理論を使い、ステージに乗せられる芸術/芸能ジャンルを、かならずしも音楽の演奏、楽器の演奏に限らない出来事一般へと拡大していきながら、ビジュアル・アート、人形劇、仮面劇、パフォーマンス、手旗信号、パントマイム、影絵芝居、エレクトロニクス演奏、その他いろいろ──なかには暗闇という「出来事」すら引用されていた──これらのことを、日常生活のなかで私たちがあまり経験することのないような形で連結してみせるライヴが、千駄ヶ谷ループラインでシリーズ公演されていた。このセグメンツ・プロジェクトは、ループラインが経営規模を縮小して再開した大崎 l-e へと引きつがれ、いくらやってもいっこうに洗練度を増さないパフォーマンス(洗練度を増すことがないために、パフォーマンスは正確な反復を可能にするなにがしかの技術になることなく、いずれも身体的な出来事の範囲にとどまっている)の数々をならべていくという、予備知識のない観客には、おそらく手作りの寸劇やバラエティ番組にしか見えないだろう不思議なステージを、今回は、「セグメンツ創世記」シリーズという、『旧約聖書』に出てくる神の七日間の天地創造になぞらえて公演してきた。4月15日は、シリーズの総集編「神は休んだ。」の公演日だった。
観客を座らせて10人ほどという狭い会場の奥が、大きな白い布のカーテンで仕切られている。カーテンはパフォーマンスの準備を隠す緞帳であり、同時に、原色のライト、光と影、懐中電灯の明かりなどを投影するスクリーンにもなる。一時間のステージは、(1)オーケストラ録音による「蛍の光」楽奏、(2)エレクトロニクス・ノイズが鳴るなか、左右からカーテンにあたるふたつの光源によるライトの交錯と文様の侵入。やがて正位置の、あるいは逆立ちしたマネキンの首の影が出現。(3)ノイズ演奏が激しくなるなか、緞帳カーテンがゆっくりとあがっていくと、ステージ奥におかめ(木下和重)とひょっとこ(古池寿浩)の面をかぶったふたりがマントを羽織って座っている。背後にはオレンジ・緑・黄色のライト。背の高いおかめがマントを脱いで立ち上がり、背の低いひょっとこが次いで立つ。おかめのすることをひょっとこが真似る。しばらくして、おかめはマネキンの首を吊るした糸を切っていく。(4)おかめが下手にいたライトの坂本拓也と、上手にいたノイズの鈴木學を手招きで順番に呼びこむ。四人が整列して、おかめのすることを真似る。右足をあげる、ひざまずいて天を仰ぐ、お辞儀をする、両手を後ろ手に高くあげるなど。このときノイズは自動演奏。
緞帳を使わない場面転換として例外的だったのが、(5)紙袋が持ち出され、観客の頭にかぶせる(すでに何度もおこなわれているので、観客もみんなおとなしく紙袋をかぶる)場面だ。紙袋のうえに直接ライトが投影される。「心のセグメンツ」である。(6)紙袋が外されると、ステージに1mほどの高さの衝立てが置かれていて、衝立ての向こうからパンダ、犬のぬいぐるみ、えのき茸などがあらわれて即興劇をする。(7)ふたたびカーテン緞帳がおり、真っ暗になる。カーテンのうえに懐中電灯(ペンライトかもしれない)で光の文様が描き出される。カーテンに近く遠く、光源が動く。このシーンは無音のまま。(8)左右の光源から白や緑のライトが投影され、そこにヴァイオリンを弾く男、トロンボーンなどの影が浮かびあがる。トロンボーンの音も。このシーンもほぼ無音。(9)高い位置からのライトに大きな満月のような光の円が浮かびあがる。オーケストラ録音による「蛍の光」楽奏。二度目はメンバーによる合唱つき。満月の下弦に、手で作ったキツネやウサギの影絵があらわれる。(10)緞帳があがり、四人が整列しての挨拶。頭を下げるタイミングが一致しない。何度も「ありがとうございました」の挨拶。
もし即興的なものが「セグメンツ創世記」にあるとしたら、それは出来事の背後に「作曲家」を想定させるような、意識的であったり、計算可能性を持っていたりするような要素を、ケージ流の偶然性の導入にかえて、もっと簡略化した形で排除するためでなくてはならないだろう。というのも即興は方法であって、それ自体が出来事ではないからである。ノイズ演奏とともに緞帳の幕が開くと、おかめとひょっとこの面をつけたペアが椅子に腰掛けているというような、出来事の連鎖の予想外なところは、あまりの無意味さに笑いと恐怖が同時にやってくるという印象で、たしかにこの世にありえないものの結合と受け取れるものだが、ループラインのセグメンツ・プロジェクトから「セグメンツ創世記」まで、現在「GENESis」を名乗っているメンバー(木下和重、古池寿浩、坂本拓也、鈴木學)が固定されているように、出来事は受け継がれ、新たな出来事の介入とともに、単に組み替えられるだけというふうにもいうことができる。ここにはおそらく即興演奏に一般的な問題──即興が事後的に語れない行為であるにも関わらず、語りとはつねに事後的にしかありえないという二律背反──も関わっているだろう。
冒頭に戻れば、ケージが示したようなこと──「音楽」と呼ばれるものの多様なあらわれの背後に、ある構造を発見し、現代音楽のように、特権的でもあれば自立的とも思われている芸術領域と、その外にある日常生活を通分してみせるような行為によって、「作曲」の意味そのものをずらしていくような作曲をしてみせることと、ここで木下和重がしているような、あらかじめ獲得されたそのような抽象的な場所から、ある具体的な出来事の領分に降りてくる作業とは、真逆のベクトルをもつ行為となっている。要素としては、どちらが欠けても成立しないが、だからといって、「セグメンツ創世記」に集められた数々の出来事のなかにセグメンツ理論を探そうとしても、おそらくまったくわからないだろうし、もしていねいに説明されたとしても納得できないのではないかと思われる。というのも、おそらく個々の出来事は、音楽理論を前提としながら、あくまでも木下の感覚によって集められるからであり、観客は(出来事の背後にある構造ではなく)そうした感覚そのものを、(身体的に)了解可能な出来事のひとつとして感じとってしまうからである。このことは、同様にして、他のメンバーにもいえる。あえて現代音楽の文脈を外していうならば、セグメンツ理論というのは、そのように出来事の外部にあるものを指摘することで、出来事が出来事に自足することで出来事性を捨ててしまうような事態を回避するための、つっかえ棒のようなものではないかと思われる。■
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大崎 l-e