2012年4月22日日曜日

鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート:その8



鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート
ELECTRICAL PARATE: PART 8
日時: 2012年4月21日(土)
会場: 東京/大崎「l-e」
(東京都品川区豊町1-3-11 スノーベル豊町 B1)
開場: 7:30p.m.、開演: 8:00p.m.
料金: ¥1,500+order
出演: 木下和重(violin, electronics) 鈴木 學(electronics, 野菜)
問合せ: TEL.050-3309-7742(大崎 l-e)
※電話はライブのある日の午後5時以降にお願いします。


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 鈴木學と木下和重の<エレクトリカル・パレート>は、木下の声かけによって2011年の9月にスタートしたエレクトロニクス・デュオで、もともとは今井和雄トリオのライヴのとき、急遽出演できなくなったオプトロン伊東篤宏のピンチヒッターとして木下がトリオに参加したのがきっかけになっているという。エンジニアでエレクトロニクス製作講座を開いている鈴木學が、回路を自作した発信装置を使ってエレクトロニクス演奏をするプレイヤーであることは、数々のユニットで演奏してきた経緯もあり比較的知られているだろうが、かたや弦楽四重奏団を率いたり、不思議なエンターテイメント作品を作ったりと、その活動スタイルがいささか謎の木下については、エレクトロニクスへの関心はおろか、ほとんどなにも知られていないというほうが早いのではないかと思われる。そしてそれは、実際のところ、私のようにほんの少し木下を知るものにとっても、内橋和久のワークショップに参加してライヴ活動をはじめたヴァイオリン奏者という以外にはうまい形容のしかたが見つからない。個人的なことではあるが、直接には音楽に関わらないことで、プロフィールに書かれることもない、阪神・淡路大震災のとき神戸で被災した経験を話してもらったことが、ずっと印象深く記憶に残っている。

 音響トリガーとなるヴァイオリンを携えた木下和重はステージ下手に位置し、旧ループラインからひきついで使用されている鉄製のふたつの丸いテーブルのうえに機材を並べた鈴木學は上手に位置した。ふたりの間には、それぞれの音響装置から出されたシグナルを増幅する大小のスピーカーが置かれている。今井和雄トリオなどでは、赤い団扇で電子ノイズをあおぐというようなインタラクティヴなパフォーマンスも加味することのある鈴木だが、この晩はほとんど動くこともなく、いたって地味なふるまいに徹していた。鈴木のエレクトロニクス演奏は(あるいは電子回路は)、低音成分の多いファットなノイズが特徴となっているように思われる。かたや、ヴァイオリン弦の響きはもちろんのこと、楽器ボディへのタッチやヒットまでもトリガー音源にする木下の演奏は、聴き手が視覚でとらえることのできる楽器の部位による響きの性格の違いが、そのままエレクトロニクス演奏の違いにも反映されるようなものとなっており、ループされるサウンドの微細な変化にも彼ならではの(かなり忙しい)変化が加えられる。

 初めて<エレクトリカル・パレート>を聴いた感想としていうと、デュオ演奏におけるエレクトロニクスの質はかなりざっくりとしたもので、決して爆音ではないが、ラップトップに登録したサウンドファイルによる演奏などとはまったく違う、演奏者の身体性に近接した場所から生み出されるノイズ・ミュージックという感触を持った。サウンドに野生の部分が残されているといったらいいだろうか。一方で、音響を実体化するスピーカーのサイズの問題であるとか、時間を形成するという意味では、サウンドそのものより重要と言えるかもしれないループに対する方法論的な依拠──電子音がそこに連続的にあらわれることを可能にする枠組みとして採用されるために、ループそのものが意味生成の場であることが意識の対象にならなくなること。よく使われる比喩に従うなら、ものを見る目そのものを見ること──などが、デュオ演奏を大きく枠づけているように思われた。エレクトロニクス音楽の大衆化とともに、エレクトロニクスの響きそのものに対する私たちの感覚も、ずいぶん開発されたと思う。音質に対して感覚が細分化されたり、響きがループされる意味生成場を、空間(優位)的なものとして体験するか、時間(優位)的なものとして体験するかというような経験の質にまで、聴き手の感覚自体がコミットできるようになった。そうした意味でいうなら、<エレクトリカル・パレート>デュオは、野生のサウンドをもってする、仮想された(ひとつの)大文字のループのうえの即興的対話になっていると思う。

 パート8においてメルクマールをなしたのは、第一部の後半に出現した、木下和重がヴァイオリンのボディをたたきながらその音をループさせた場面である。私の耳にはそれが土を掘る音として聴こえてきた。というのも、これは端的に、木下の出したサウンドが、ボブ・オスタータグの『Sooner Or Later』(1991年)を想起させたことによる。ジャーナリストとして現地におもむいたオスタータグが、エルサルバドルの内戦で殺された父親を埋める少年のすすり泣く声やシャベルの音をサンプリングした政治的な作品。木下がこの作品を知っていたかどうかは知らない。しかしながら、即物的なサウンドが聴き手の思いがけない記憶を誘発するのも、こうした演奏がもたらす音楽の一部分だろう。また第二部で、ふたりが同時に音響装置の操作をやめ、回路から手を離して自動演奏させたときがあった。このような演奏は、これまでのライヴで初めてということだったが、彼らの操作する電子回路が、演奏者とは別に、そこに自生しはじめていることを意識化させる興味深いシーンだったと思う。こうしたなりゆきも、デュオにおいてはすべてが偶発的に招来するもので、決して目指されるようなコンセプトではないということであった。



※【次回】鈴木學と木下和重のエレクトリカル・パレート:その9      日程:5月27日(日)、会場:大崎/戸越銀座 l-e、ゲスト:古池寿浩
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大崎 l-e