2012年4月12日木曜日

『南蛮人 NANBANJIN』



『南蛮人 NANBANJIN
 (The Barbarians from the South)
監督:ジャンニ・ジェッビア、2012年、製作企画:Objet
会場: 六本木「スーパーデラックス」
(東京都港区西麻布 3-1-25 B1F)
開演: 2012年4月11日(水)
開場: 7:30p.m. 開演: 8:00p.m.
料金/前売: ¥1,800+order 当日: ¥2,300+order
予約・問合せ: TEL.03-5412-0515(スーパーデラックス)

(第一部|映画上映)
ジャンニ・ジェッビア監督『南蛮人』
(第二部|トーク)
ジャンニ・ジェッビア(『南蛮人』監督) 岡博大(批評家、映画監督)
マイク・クベック(通訳|SuperDeluxe)
(第三部|即興セッション)
ジャンニ・ジェッビア(sax, 篠笛, etc.) マルコス・フェルナンデス(perc)
古谷野哲郎(dance) ロンサン(chindon) 


♬♬♬


 これまでにも何度か、都内のライヴハウスでハンディカメラを回しているその人の姿を見ることはあったのだが、迂闊にも、本格的な映画製作を考えているとは知らなかった。『浅草のブレヒト』(2010年)につづく第二弾のジャンニ・ジェッビア監督作品『南蛮人』が、六本木「スーパーデラックス」で上映された。上映会の第二部では、『<映才教育>時代──映画の学校はどこにでもある!』の著者であり、鎌倉で「ZEN映画祭」をプロデュースし、自身ドキュメンタリー映画の監督も手がける岡博大(おか・ひろもと)とのトークが、また第三部では、ジェッビアの友人でもあり、俳優のように演技するかわりにパフォーマンスで映画に出演した「世外を生きる人々」たち──打楽器のマルコス・フェルナンデス、バリ舞踊の古谷野哲郎、大衆演劇のスタイルでチンドンを演奏する両性具有的なロンサンとのライヴ・セッションがおこなわれた。撮影はジェッビアから急に電話がかかり呼び出されるという思いつき的、即興的方法で進められたといい、おそらくそうした撮影方法をダイレクトに反映したのだろう、作品化された映画も、物語を順序よくたどるというのではなく、シチリア島と日本で撮影された断片的イメージを次々に重ねていく飛躍の多いものになっていた。

 映画のタイトルである「南蛮人」とは、広義には、南から来た異人の総称(もともと中華思想を持った中国の言葉)であるが、ここでは「キリスト教伝来の任務を背負い、渡来した最初の西洋人のバテレン(神父)」に限定して使われている。ポルトガル・スペイン国籍のバテレンたちが、多く南方を経由して日本に渡来したためとされるが、この「南蛮」はやがて、「異国風で物珍しい文物を指す語(昭和初期までの「舶来」と同義)として使われるようになった」という。そのようにして江戸時代に日本にやってきたキリシタン宣教師たちのなかに、ジェッビアの故郷シチリア島パレルモ出身者がいたこと、またキリシタン禁止令が出された江戸時代には、宣教師を含む多くのキリシタンが、政治犯として処刑されたこと等の史実が、映画の記憶の古層(フィルムにけっして映らないもの)として設定され、シチリア島パレルモと日本の東京とを往復するひとりの即興演奏家の現在とワープしながら、イメージの物語を紡ぎだしていく。この歴史時間の錯乱を「作者の自叙伝的な側面」と呼ぶ解説のとおり、映画はふたつの土地をなぜ往復するのかという、おそらくは誰にも答えることのできないジェッビアの自問によって貫かれている。

 映画のなかで最も印象的だったのは、江戸時代の刑場のひとつとしてよく知られた首切地蔵のある小塚原刑場(東京都荒川区南千住二丁目)跡地の撮影で、 おそらくここで処刑されたものもあっただろう宣教師やキリシタンの無念を鎮魂するかのように、マルコス・フェルナンデスや古谷野哲郎が演奏し、舞った場面であった。まだ日の高いうちから日没までの時間を過ごしたと覚しき映像は、いまや私たち日本人の記憶から排除された、見えない領域を視覚化したものであり、現在という時間にぽっかりとあいた風穴といってもいいような空白を映し出していた。パレルモと東京、過去と現在、政治と民衆(3.11以後の日本社会も踏まえられている)といった様々なものを仲介するのが、じつは「死」であったということを、この場面ほど雄弁に語るものはないだろう。トークの時間に岡博大が語ったように、それは死者が生者となって再来しながら、一場の夢を物語る夢幻能の演劇構造を(偶然にも)体現しており、映画のなかに散乱した状態でちりばめられている断片的なイメージの数々を、一挙に通底するような、時間の通い路となっていたからである。そのような時空の特異点が、常磐線と日比谷線にはさまれた具体的な住所を持っているということに、めまいを起こしそうである。

 マルコス・フェルナンデス、古谷野哲郎、ロンサンらが、映画のなかから抜け出してくるようにステージに登場し、監督という神の視線をもってカメラの背後にいたジャンニ・ジェッビアと、ふたつのトリオを構成して即興セッションする最後の20分間は、いわば聴き手をこの小塚原刑場に居あわせようとするものであり、六本木スーパーデラックスは、特異な時空へとワープしていたように思う。エレクトロニクスというよりむしろノイズ的なフェルナンデスの打楽。古谷野がみせるつがいの蝶々が戯れるようなてのひらの舞い。客席に見栄を切りながら打たれるロンサンのチンドンに、ジェッビアが篠笛を吹いて作りあげる祭り囃子。サックスを吹いてのチンドン・ミュージック。いずれも日本人の身体深くに埋めこまれた根源的なサウンドの記憶である。これにつけ加えるものはなにもなかったからだろう、この場面でフェルナンデスはほとんど演奏らしい演奏をしなかった。即興演奏の領域において、音楽の言葉ではうまく説明することのできないジャンニ・ジェッビアのビザールな感覚。彼が思い描いているものを、あるいはその背後に隠しもっている薄暗く広大な世界を、この「南蛮人」セッションはあますところなく解き明かしていた。

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六本木スーパーデラックス